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ハッセルとぐい呑み

第一回

 私、写真家の稲田浩男と申します。生まれも育ちも茨城ですが、以前は東京の谷中に住み、神田にスタジオを持って広告写 真の撮影を業としていました。その頃はそれなりに毎日が充実していて楽しいものでした。この頃の「こだわり」と言えばカメラ、それもスウェーデン鋼でがっしりと造られた「ハッセルブラッド」で、このカメラはその頃プロのステータスでもありました。子供の頃から機械類が好きだった私にとって、ハッセルの、金属製で角張った冷たいボディーの手触りと、レンズシャッターの深みのある独特のシャッター音とは、その写真のシャープな仕上がりと共にプロカメラマンとしての心を満足させるものでした。


笠間1

 

 

 ある時、仕事で陶芸家を撮影することになり、益子に程近い笠間に向かいました。 はじめて私がたずねた頃の笠間は、林に覆われたゆるやかな丘陵が拡がる山里で、陶芸家の数家族が私達とはまったく違った生活感覚で、焼物を創りながら互いに素晴らしい連帯感を持って住んでいました。私は大へんなショックを受けました。今まで自分が大切にしてきた物や事が、突然何だかつまらないものに思えてきたのです。「どうしてもこの人達と仲間になりたい」という思いで頭が一杯のまま帰京しました。カメラ・バッグの片隅には、笠間での一週間の撮影中、ある陶房で焼いてもらった自作の「ぐい呑」が入っていました。早速、後に陶芸の師匠となる陶芸家の隣に場所を見つけもらい、陶房も兼ねた小さな小屋を作りました。これが1978年のことです。そして、週末には家族をつれて粘土をこねたり、ロクロを回したりして陶芸を楽しめるようになりました。


笠間2

 

 

 そんなことをしているうちにカミさんの笠間病の方が重症になり、とうとう「谷中の家を引き払って笠間に移住しよう」という話になってしまいました。基本的には反対ではなかったのですが男には仕事があります。通 勤には遠すぎるし急に転職も無理!とグズグズしていると、カミさんは軽くこう言いました。「収入なんて気にしないでいきましょう。田舎の山には草や葉や、食べる物はたくさんあるし、なぁに、いざとなれば生活保護だってあるんだから。」「、、、、、、、、。」

 

笠間3

 

 

 「生活保護」にとどめを差されて、我がファミリーは1986年笠間に移住しました。当分の間、撮影は東京まで通 う事にして、量を少しずつ減らして行きました。その後、今までの小屋だけでは住むとなるとどうしても手狭なので、自分で大工をして小屋を改造したり、18坪の別 棟の家を建てたり、窯を作ったりして充実した楽しい毎日を過ごしました。転校した下の娘が学校の帰りに新しい友達と桑の実を腹一杯食べて、「お父さん、道草を食うってはじめてわかったよ。」と言ったのもこの頃でした。そしてこの頃と言えば(今でも似たようなものですが)、晩飯を家族だけで食べるのは週に一度かニ度で、他の日は周りの家族と行ったり来たり、夢のようなパーティの連続でした。

 

 

 

 

 と、まあこんなわけで、陶芸という名の底なし沼にズブズブと吸い込まれてしまったわけですが、本当の所、陶芸でメシを食うというよりは、セミプロかアマチュアでやれれば良いと思っていました。というのも、写 真の世界でのアマチュアの中に私の眼から見て「プロには出来ない制作態度」とでも言うべき方法で写 真を創っている人が居たからです。この考え方は陶芸の世界でも応用出来るのではないか、と思っていました。

 

ろくろ2

 

 

 一般的なプロの陶芸家の制作法は、備前、信楽、萩などの有名な産地でその地の技法を学び、その地の粘土を使い、その地でその技法で物を創ってゆく方法が多いようですす。その作家は壷でも皿でも茶碗でも何でも、同じ粘土、同じ釉薬の作品を作り続けることになります。もう一つのタイプは美術大や陶芸教室で学んだ後、様々な粘土や釉薬のテストをくり返して、自分の作風に合う粘土と釉薬を探し出して、何でもそれで作り続けてゆくというかたちです。この二つに共通 する事は、壷も皿も茶碗も何でも作ることと、同じ粘土、同じ釉薬で焼くことになります。
 プロがやっていないのは一種類の物を、様々な粘土、様々な釉薬で焼くことらしいと気がつきました。これならば複雑な技法を長い年月をかけて学ぶ時間のない私にとって好都合です。創る過程でも、どんな肌合いの、どんな色の物が出来上がるのか、常にわくわくしながら出来上がりを待つという楽しみも生まれる事になります。  次は「一種類の物」を何にするかと言う事ですが、好きな物が一番いいだろうと思い、大好きな酒を呑むための「ぐい呑」に決めました。実は前にお話した、最初に笠間に来た時ある陶房で焼いてもらった自作の「ぐい呑」で呑んだ酒の旨さに鳥肌が立った事もその理由の一つでした。さらに、「ぐい呑」のコレクターは沢山いるから結構商売になるよ、といった声もなかなか魅力的だったのです。これで、創る物は決まりました。

 

菊練り

 

 

 次は粘土、釉薬ですが、その前に形を自由に作る技術を身につけなくてはなりません。とにかく早くロクロを引いてみたい気持ちが先行します。しかし今ではお隣さんになってしまった、私の師匠である陶芸家の筒井修氏は「稲田さん土練りが第一よ。菊練り(焼く時に割れない様に、粘土の中の気泡を除き、均一にする練り方)を先ず覚えなくっちゃなんにも出来ないよ。」と、ロクロに乗る事をなかなか許してくれません。菊練りは名前のように上手く練り上がると手のひらの跡が、菊の花模様になるのですが、はじめは、思うように菊の花が咲いてくれないのです。長い時間がかかりました。

 

ろくろ3

 

   ロクロを引いていると、いいところで急にグニャグニャと崩れてしまうというテレビの印象が強く、最初はおっかなびっくりでしたが、スベスベでヌルヌルの粘土が手の内で回り出すと、子供の頃の泥遊びが急に思い出されて、なんとも懐かしく気持ちの良いものでした。思わず口元がほころんでくるのを、どうしても止められませんでした。

ろくろ1

 

 

 こうして、時間のある限りはロクロに乗って「ぐい呑とは程遠い物」をたくさん引きました。最初は、ロクロを回しながら粘土を引き上げられない、広げられらない、窄まらないと、ないないづくしの連続でしたが、慣れというのは恐ろしいものでだんだん「ぐい呑みたい物」になってきます。粘土は乾燥する時に収縮し、さらに焼きでもう一度収縮し、ロクロを引いた時から焼き上がるまでに、合わせて15%〜20%位 小さくなります。はじめの頃、程よい大きさの良いぐい呑が引けたつもりで焼いてみたら、可愛い「おちょこ」になってしまってがっかりしたことが何度もありました。こんなことを散々くり返して、師匠から「うん、これはぐい呑だね。」と言はれるまでに約一年が必要でした。

 

   

思った形がロクロで引けるようになると次には、「ぐい呑の形」の追求です。

 

第ニ回へつづく

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