俺の名はシータス。
渋い焦げ茶系のトラネコだ。
生まれはニューヨーク州アップステーツのイサカ町。
おやじはここらではちょっと顔の売れた虎猫。
イサカ町の中心街、コモンズの路地を根城に、コーネル大学のキャンパスに至る一大勢力圏を築き、なかなかの羽振りのよさだった。
おふくろはイサカ小町と騒がれた姿のよさ。四代前に溯れば、ペルシャの血をひくだけあって、フワフワでちょっと長めの焦げ茶の毛は、ミンクのコートのよう。
大勢のオスと争奪戦の末、やっとおやじが射止めたあこがれのマドンナだった。

おやじは強く権力者で、おふくろは美人のもと深窓の令嬢とくれば、俺の素性もまんざらではない。
毎朝、エイプリル・イン・コーネルというインテリア小物店の裏庭の、大きなカゴの中で目覚めると、おやじはもう町を見回りかたがた、近くのカフェ・デカダントまで朝食に出かけた後で、優しいおふくろは、赤茶トラ、ミケ、黒白三匹の兄弟と共に、俺にミルクをたっぷり飲ませてくれる。
しかも、飲んでいる間には丹念に毛づくろいまでしてくれて、俺たち兄弟は、幸福を絵に描いたような毎日を過ごしていた。

 ところがある日、そんな幸せがもろくも崩れ去ってしまうような出来事が起こった。
俺たちを育てるのに、ふだんにもまして栄養を取らねばならないおふくろは、たまに目先を変えたいとき行くベトナム料理店まで足を伸ばした。
その店の厨房でたった一人、おふくろの美貌をもってしても陥落させることのできなかった間抜けの皿洗い、ユアンが、くだらん客に出そうと並べておいた生春巻きをおふくろがくわえたのを見て逆上し、こともあろうに、メンをゆでようとしかけてあった煮え湯をおふくろの頭からブッかけたのだ。

野蛮な殺しやめ、かわいそうにおふくろは、半身大やけどで俺たちのいるカゴに戻ってきた。
あのきれいな顔は毛がほとんど抜け落ち、目もつぶれ、口も開かないほど腫れ上がったおふくろを見た俺たちは、化け物がきたのかと、思わず背中の毛を逆立てて「フー」と叫んでしまったくらいだ。
おふくろはだまってカゴに倒れ込むと、そのまま荒い息をたてるばかり。


おやじを呼びにいこうということになったのだが、さて、おやじの居所がわからない。
俺たちはいつも、子供だけで決してこの店の裏からでてはいけないと言われていたから、町の地理などとんと知らなかったのだ。
妹のミケのやつはただメソメソ泣くだけ。
弟の白黒と茶トラは恐怖と驚きで腰がたたない。
えい、どいつもこいつも役立たずだ。
ではこの長男の俺が行くしかないではないか。

「じゃ、行ってくるね。ここを動くんじゃないよ。みんなでしっかりママの傷をなめて上げるんだ」
と言い置いて、俺は方角も分からず走りだした。
ヒュッ。
目の前を車が二つついた金属製のものが走り抜ける。
ブーブー!今度は後ろから、とてつもなく大きな、赤い金属の箱みたいなものが走ってきて、ものすごい音でどなりつける。
俺は生きた心地もしなかった。

ほとんど目をつぶったまま、ひたすら走った。
しかし、いつまで走ってもおやじの臭いはしてこない。
それもそのはず、後で分かったのだが、俺は、ダウンタウンとは反対の国道へ向かって走っていたのだ。
 結局、俺が兄弟やおふくろを見たのはそれが最後。
二度とあの店の裏のカゴの中に戻ることはなかった。

 おかしいと思ったら方向転換すればよかったのだが、そこはまだ生後三カ月そこそこの子猫、ただ闇雲に直進した。
さっき俺のうしろからブーブーどなった四つ車のついたモノの数は増える。
歩いている人はいない。
店も人家もなくなってしまった。
そのころになってまずいと気づいたがもう遅かった。
しかたなく歩き続けるうち、おなかは減るし、疲れるし、目もかすんできた。
それでも、長男としての責任感と、人一倍いや、猫一倍の気の強さで、このまま戻る訳にはいかないと先へ進んだ。




 悪いことに雨まで降って来た。
大きな木の下に小さな穴のあるのを見つけ、中に入った。
すると、チクン! お尻に、しびれるような鋭い痛みが走った。
電気に感電したらこんな具合なのだろうか。

そう、先客がいたのだ。
ハリネズミ。
そこは彼らの家で、いきなり入って行った俺に驚き、ボワッと毛を逆立てたってわけだ。
「やいやい小僧、だれのうちだと思ってやがんだ。出ろ、出ろ。ここはお前なんぞの来るところじゃない!」
 人間からも動物からも、こんなひどい言葉をかけられたのは初めてだった。

ともかく、それまでの俺は、品のいいおふくろにかわいがられ、権力者のおやじの庇護のもとにあって、よその野良猫だって、俺たちに喧嘩を売るような者はいなかったのだから。

 あわてた俺はそそくさと穴を飛び出し、また走った。ますます方向が分からなくなった。
辺りが暗くなってきて、もう意地でもこれ以上一歩も歩けなくなった。
と、少し先の森の中に、小さな明かりが見えた。
――きっと家に違いない――
と、思ったどうかは確かでないが、ともかくそちらの方向へ身を引きずるように進んだ。

家だった。崩れそうなボロ家。
ポーチに明かりが灯っている。
俺は用心深く裏手へ回った。
ウーンいい匂い。
食べ物の匂いだ。
匂いを頼りにさらに進むと、目の前に、ミルクをかけた野菜のシチューと肉らしきものの入ったボールがあるではないか。

前後の見境もなく、警戒も忘れて俺は食べ物にむしゃぶりついた。
と、身体が宙に浮いて、次の瞬間、ドサリと地面に投げ出された。
目の前には牙を剥き出した大きな犬。うらぶれた農夫みたいに皮膚のたるんだ、薄茶色の年老いた犬だ。
自分の餌を盗まれた犬は、怒り心頭に発し、俺を投げ飛ばしただけでは飽き足らず、飛びかかろうとしている。
俺は腰が抜けそうに驚いて、疲れていたことも忘れ、無我夢中で逃げた。

その晩は、水のない、枯れ葉の詰まったどぶの中で一夜を明かした。
まだ雪の降る時期でなかったのが幸い、枯れ葉の布団でなんとか夜露はしのげた。

 次の日目が覚めると、身体中のどこもかしこもが痛み、歩くこともままならない有り様。
腹は、へったなどと生易しいものではなく、もう完全に背中の皮にくっついてしまいそうだった。
それでもヨロヨロとどぶからはい出した。
ともかく、どこかで食べ物を手にいれなければ死んでしまうと思った。
『死ぬ』と思うと、なんでもできるものだ。

昼間の明るい日の光の中で見ると、ポツン、ポツンと人家がある。
その一軒に忍んでいって、細く開いていたドアの透き間から中を覗く。
子供がキッチンのテーブルで盛んに何かを食べている。
そっと背後に回ってチャンスを待った。

母親の呼び声に、子供が立ち上がって隣の部屋にいったその一瞬をねらい、椅子に飛び上がり、テーブルの上へ。
ところがまだ、跳躍力が足りなかった。
飛びついた椅子から転げ落ち、無残に床にたたきつけられる。

物音を聞き付けて、母親と子供が戻って来た。
「アッ、子猫だ」
子供が急いで捕まえようとする。
それを母親が制した。
「だめよ、こんなきたない猫。きっと病気をもっているわ。触っちゃだめ。ほらシッ、シッ」
 まるでネズミでも追い立てるように俺を追い払う。子供は俺に未練があったらしく 「でもママ、かわいいよ。それにおなかが減ってるみたい」
「だめだめ、野良猫ってものは、一度餌をやったりしたら、ずっと住み着いてしまうんだから」
 追われて草むらに隠れた俺は惨めだった。
ドロボーや浮浪者のように扱われ、心の中まですさんでくる。


――畜生、きっと盗んでみせる―― 
人間の世界でも、一度落ち始めると転落は早いというそうだが、それはネコの世界でもまったく同じだった。
こうして追い払われ、汚いとののしられ、疫病神のように扱われると、アッと言う間にそれにふさわしい猫になってしまう。
おやじを探しにカゴのわが家を出てから、まだほんの二日だと言うのに、俺は、もう一端の悪がきに成り下がっていた。しかし、まだ盗みになれていなかったのと、盗みはしても物乞いはしたくないという妙な誇りのお陰で、腹にたまる程の餌にありつくことはなかった。

 今考えてみると、きっと同じ場所を輪を描くようにさまよっていたに違いない。
イサカは小さな村なのだから。
見たような家の前を何度か通った気もするが、混乱の極みにあった俺には、場所がどこなのか、何日経過したのかさっぱり分からなかった。

 また一夜明けて、ふと気が付くと、前方に、とてつもなく大きな建物が見えた。
例の動く箱のようなモノ――
このころになると、それが自動車というものだということも分かった
――も色とりどりに一杯並んでいる。
やっとその前まできたとき、急に走り込んできた”箱”を避けようとして、隣に停まっていた緑色の”箱”に頭をぶつけ、そのまま気を失った。

to be continued

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