親なんてうかつなもので、おばちゃんはみどりの部屋の掃除に入るくせに、机の上なんかに注意を払わない。
あの人は自分の机の上を他人に触られるのが嫌なので、机の上は聖域だとでも思っている。
だから、どんなに乱雑だろうと埃がたまっていようと、みどりの机もおじさんの机も、放ったらかしておくのだ。

   そこで俺は注意を引こうと、みどりの机の上に飛び乗って、ガチャガチャとわざとペン立てをひっくり返した。
「あらあらシータ君、またおいたして。おねえちゃまにしかられるわよ」

   と言いながら、おばちゃんはペン立てを直す。
そのまま掃除機の所に戻ろうとしたから、俺は、
――ちょっと待ってよ、ほら、ここ。ここに何があったっけ?――
とばかり、今度は、おばちゃんとおじさんの写真の入った額を倒した。
「コラッ!」
 と、言いながら、さすが鈍いおばちゃんも、そこにポッカリ空いた空間に気づいた。
「あら、ダニーの写真が……。フーン、そういうことなのかしら……」
 と、俺の顔をしげしげ眺める。
俺は髭をピンと立て、ウンニャーと答えた。

   その晩、おばちゃんはおじさんに話した。
「ね、みどりの机の上から、ダニーの写真が消えてるの」
「ほほう。やっぱり……か」
「それにしちゃ、あの子、結構ケロッとしていない?」
「うん。あれで結構気の強いところがあるから、我慢してるんじゃないか?」
「ちょっと聞いてみようかしら?」 「ふむ……」
 俺も、ぜひ聞いてもらいたかった。



   次の休日、珍しくどこへも出掛けなかったみどりとお茶を飲みながら、おばちゃんがさりげなく切り出した。
「ねえ、ダニー、どうしたの? やめたの?」
「うん」
「うんってあなた……。あんなに仲よかったのに?」
「うん」
「喧嘩したの?」
「そうじゃないけど」
「あなた、また、かわいくないこと言ったんでしょ」

   ハッと顔を上げたみどりの目が潤んでいる。
おばちゃんは、ちょっと突っ込み過ぎたかと、身を引いた。
「あっちが、もうやめようって」
「エッ? ダニーの方からやめようって言ったの?」
「振られちゃったのよ」
「なんでまた?」

   おばちゃんも、聞かずにはいられなかった。
俺も思わずひざを乗り出す。
「まあ、近ごろ、意見が合わないことが多かったのよ。それに、この先のことだってあるし……。そしたら、むこうから、私たちいろいろなことが違い過ぎて、このまま続けるの無理かもしれないって」
「そうなの……」
 けなげに悲しさに耐えている娘を見て、おばちゃんの方が涙ぐんだ。
別に、特にダニーでなければと思っていたわけではないが、娘があれほど気に入っていた子であれば、一緒になるのかな……と、漠然と覚悟はできていたつもりだったのに。
「そう決めた直後はつらかったわ。会社に行っても仕事も手につかなかった。でも、もう気持ちの整理はできたの」

   一人で苦しみ、一人で耐えていた娘に何も手を貸してやれなかったことが、おばちゃんは悲しかったらしい。
しかし、俺は違った。

   例のジプシー占いが稲妻のように俺の脳裏によみがえった。
――もしかしたら、ダニーが去っていったのは、俺のせいじゃなかったか――
あれだけ露骨に嫌悪感を表したから……あれほど、不必要に怖がって見せたから……。
思わずみどりの足に、頭突きするように頭をすり寄せると、
「シーちゃん、これでよかったのかもね」
と言って、俺を抱き上げた。



   それから3カ月後の6月末、会社を辞めたみどりはパリへと旅立った。
大学時代、結構得意だったフランス語を勉強し直すというのが会社を辞めた理由であり、両親への理由だった。
だが、両親にも俺にも、それがダニーを忘れ、新たな出発に向けた心の整理であることはよく分かっていた。

   もちろん俺も一緒だ。まったく様子の分からないフランス。
花の都パリ……。俺にとっても新たなスタート、新たなチャンスの到来だった。
   またまた飛行機に押し込まれての長旅。
イサカ時代のように頻繁に飛んでいなかっただけに、今回はひどく疲れた。

   それでもシャルル・ド・ゴール空港に着いたとたん、まず、鼻に飛び込んで来た臭いのあまりの違いにびっくりした。
なんというか、湿ったペンキの臭い――あのツンとくる揮発性の臭いではなく、塗ってしばらくたってまだ抜けないあの臭い、ちょっと湿気た古い西洋館の臭い……。こんなことを言っても、誰も分かってくれないだろう。

   それに、耳に飛び込んできた言葉の響きの違いだ。みんながみんな、口の中でブツブツ言っているみたい。
空港からタクシーを拾って、住所の紙切れを渡し、おばちゃんの友達の友達という人の持っているアパートにたどり着いた。
シャンゼリゼから凱旋門を挟んで反対側に伸びる、グランダルメの大通りを1本入った閑静な住宅街だった。

   なんでもその部屋、ふだんは別の女子学生に貸しているんだそうだが、ちょうどみどりの滞在する半年間、その子も別の場所に研修に行っているとかで、貸してもらえることになったのだそうだ。

   みどりはもう何度もパリには来ていたから、きっとなんでも分かっているのだと思っていたら、今まではいつもおばちゃんと一緒だったので、全部おばちゃん任せ。
――自分は方向音痴だからどうしよう――と、
自信のないことおびただしい。
幸い、エトワール広場からすぐの所だったから、どこからでも、凱旋門を目がけてくれば、家に戻るのに問題はなさそうだった。



   アパートの持ち主――マダム・ペランという――は、未亡人のインターナショナル・ビジネスウーマンで、ちょっとがさつな感じだが、さっぱりした善さそうな人だった。
みどりの大きなスーツケースを
「すごいわね、まるで棺桶みたいじゃない」
と言いながらも、5階の部屋まで運ぶのを
(このアパートにはエレベーターがない!)
手伝ってくれた。

近くのコインランドリー、郵便局、食料品店などのありかを教えてくれ、部屋の使い方、アパートのルールを説明すると、
「それじゃ、パリを楽しんでね。私は、出張が多くて留守がちだけど、息子のフレデリックが夜は学校から帰っているから、なんでも分からないことは彼に聞いてちょうだい。あら、あんたが猫ちゃんね。かわいいこと。でも、お部屋を汚したらだめよ」
と、俺の頭をポンポンとなでると、自室に引き取った。

   部屋はいわゆる屋根裏部屋。
昔はお手伝いさんがこういう部屋に住んでいたのだそうだ。
しかし、息子の友達が全部改装してくれたとかで、どこからどこまでモダンで清潔。
ドアを入った正面にシャワールームがあり、それから右と左に1つずつ部屋がある。
右側が大きなベッドと、小さなクローゼットのある寝室。
左側には、こじんまりしたキチネットの前に4人くらい座れるダイニングセットがおいてあり、一方の壁にそってベッドになるソファが、急勾配に傾斜した梁の下にしつらえてある。

   食堂の方の真っ赤なゼラニウムを飾った窓からは、デュレ通りのプチホテルが真正面。
寝室の方の真っ白なゼラニウムの窓からは、小さな中庭とそれを囲むように配置された隣近所の窓。
それに、デコボコ不揃いなスレート屋根と、小さな筒を並べたような煙突群。
その遙かかなたにはエッフェル塔まで見える。
なんだか、パリの下宿を絵に描いたような部屋だった。



   みどりは、まず下宿備え付けのシーツと布団でベッドを作り、荷物をクローゼットに収め、シャワーに飛び込む。
出てくると、
「シータス、今夜はもう疲れたから、どこか近くで食事をして、お買い物は明日にしようね」
と言った。 俺も大賛成! 疲れも吹っ飛んで、夜の町へ繰り出すスリルに胸を躍らせた。

あれ以来埃にまみれていたハーネスをつけられ、ノッシノッシとプロムナードを楽しむ。
猫の俺でさえ、何度も絵や写真で見たことのある、あの凱旋門の下に立って、シャンゼリゼからコンコルドの観覧車を見下すと、ああ、パリにいるんだという実感が胸に迫った。

   食事の方はまあ、第1日目ということもあって、下宿からほんの1ブロック離れた所にあるベトナム料理屋になった。
――畜生、あのイサカのベトナム料理屋のユアンめ――
悪い癖で、ベトナム料理というとつい、おふくろに熱湯をあびせたコックと結び付き、俺を暗い気持ちにさせる。
しかし、みどりが大のベトナム料理ファンなので、そんなことを言って嫌な気持ちにさせるのはかわいそうだったから、俺もさもおいしそうにナマ春巻きやら、フォーやらをプラスチックの皿に入れてもらって食べた。

   腹にものが詰まり、元気が回復してみると、まっすぐ部屋に戻ろうなんて気はたちまちなくなった。
6月のパリの日は長い。
こんなに明るいのに、部屋に戻って眠るなんて、考えられなかった。
かといって行く当てもない。

   そこでみどりは思いついた。シャンゼリゼへ行って携帯電話を買おう。もちろん下宿に電話はないし、いちいち公衆電話に行くのは面倒臭い。
どのみち携帯は買おうと思っていたのだから、いま買えば、早速東京の両親に無事到着の報告もできる。









   シャンゼリゼは人でごった返していた。
イサカは小さな田舎町だったし、東京でも都心に出たことがなかった俺は、これほど多くの人間が一度に歩いているのを見るのは生まれて初めてだった。
ちょっと怖いくらい。

   みどりは俺の気持ちを察したのか、ヒョイと抱き上げて、スタスタ歩き始める。
でも、パリの人って、みんな格好いいのかと思っていたのに、大半がやぼったいのでがっかりしていると、みどりが、
「ここを歩いている人はほとんどが観光客なの」
と、教えてくれた。納得。

   コンコルドに向かってシャンゼリゼを下っていったみどりは、大きな携帯電話専門店をみつけて飛び込んだ。
「ボンソワール、マドモワゼル」
「ボンソワール、ムッシュ」

   フランス語には自信がないと言っていたみどりなのに、けっこう流暢なものじゃないか。
それに、なるほどうわさに聞いたとおり、フランスの男って、女に滅法親切で、みどりがちょっとつっかえたり、分からないような顔をみせると、必死になってブロークンな英語で説明しようとする。
複雑な諸機能の使い方も分かって、テレフォンカードのパスワードをインプットすると、みどりは、とりあえず近くのカフェに入って、まずおばちゃんの大親友、フランソワーズに電話をかけた。
この人とは、みどりもパリに来るたび会っていた。
「今晩は、おばちゃま? みどりです」
「ああ、みどり、今日ついたの? 下宿はどう? お部屋は清潔? 環境は悪くないんでしょうね?夕食はもう食べたの?」

   せっかちで世話好きのフランソワーズは、矢継ぎ早に質問を浴びせかける。
食事がまだだと言ったら、今すぐにでも来いと言いそうな勢いだった。
ともかく、一人で無事に電話も買えたことだし、フランソワーズも安心したらしい。
早速明日、学校の入学手続きが済み次第、街で落ち会って昼食をする約束ができた。
「で、みどり、猫ちゃんも一緒なの?」
「はい。学校には連れて行けませんが、パリは動物オーケーのお店が多いので助かります」
「そうね。それじゃ、明日は、動物オーケーの店で食事をするから、猫ちゃんも連れていらっしゃい」

   フランソワーズも、大の猫好きなのに、旅行が多い夫妻は猫が飼えず、時々遊びにくる近所の猫を家に引き入れてはかわいがっているのだそうだ。
俺はまだその人には会ったことがなかったが、最初のランチに俺まで誘ってくれるとは、好きになれそうだった。

   それから、みどりのごひいきのヴァージン(ここではヴィルジンと発音する!)へ寄って、CDを見たり、これまたお気に入りのセフォラへ行って化粧品の品定めをしたりしてから、やっと下宿へ向かって戻り始めた。



   凱旋門を過ぎ、グランダルメに入ったとたん、商店がめっきり減って道は薄暗くなる。
お総菜屋さんの店員が、値下げした残りの総菜をパックにして店先に並べ、通りかかる勤め人風の人が、これから家に持ち帰って食べるのか、いく箱も買っていく。
下宿への曲がり角にある果物屋の店先に立っていた、アフリカ人の店員さんが、
「ボンソワレ」
と、声をかけた。こちらの人は、みんな目が合うとあいさつを交わす。
日本よりずっと親しみがもてると思った。

   みどりが、アパートの入り口のドアについたオートロックの暗証番号を打ち込んでいるとき、1階のコンシエルジュの家の暗い窓辺に、とびっきり美女の黒猫が座っているのと目が合った。
パリの猫は美女が多いとは聞いていたが、来た早々、しかも自分と同じアパートで、見たこともないほどの美形に巡り会えるなんて、俺もなんと運がいいのだろう。

   不覚にも、俺は思わず、
<アッ、こ、こんばんわ>
 と、まるでムサシのようにつっかえてしまった。
美しい雌猫は、チラリと俺の方を見ると、恥ずかしそうにうつむいて、口の中でなにかつぶやいた。
きっと、ボンソワール、ムッシュとでも言ったのだろう。
俺の胸は早鐘を打ち、
「シータス、何見とれてるの、行くわよ」
 と、みどりにハーネスをひっぱられるまで、みどりがいることさえ忘れていた。

   二人で息を切らせて階段を上りながら、なんとなく明日からいいことが始まりそうな予感に、思わず頬がゆるんだ。
   部屋に入り、ベッドにもぐりこんだみどりが呼ぶのも無視して、俺はシャッターの透き間から、さっきの猫のいたデュレ通りの方を見下ろした。
向かいのホテルから漏れてくる鈍い光では、残念ながら美女猫は見えなかったが、そろそろ暗くなり始めた空に、シャンペンの泡のように星が輝くのが見えた。
東京では、ついぞお目にかかったことのない、美しい星空だった。



   俺は恋に落ちた。
頭から真っ逆さまに。
パリに着いた最初の晩から、あの黒猫のことを考えると、胸が苦しくて、ひょっとしたら心臓でも悪いのか、明日の朝起きてみたら、また頭がブヨブヨに腫れていたりするんじゃないかと、毎晩心配で眠れないくらいだった。

   みどりが学校に行って留守の午前中は、半開きの窓から外を眺める。
何といっても5階だから
――いや、こちらは1階が2階で、その下に地上階(レッドショセ)いうのがあるから、日本風にいえば6階になる――
道路は、はるか下だ。
降りてみようにも、足掛かりがない。
飛び降りるには高すぎる。
寝室の窓の方はどうかというと、まあこちらからなら屋根ずたいに行けば降りられるのかもしれない。
しかし、このゴチャゴチャと入り組んだ裏道を反対側に降りてしまったら、はたして正面に回れるものだろうか?

     これからは、みどりと一緒に外出する際、しっかりこの辺りの地理を頭にたたきこまなければと思った。
幸い、みどりがタクシーで出掛けることはなかったから、バスに乗るにせよ、地下鉄にせよ、とりあえずグランダルメ通りまでは歩くことになる。

   毎日、午前のほとんどを、何時間も何時間も窓から眺めて過ごすうち、黒猫は見当たらなかったが、他のいろいろなことが分かってきた。

   まず、向かいのホテルの最上階(この部屋と同じように、屋根裏部屋になっている)はメイドの宿舎であること。
毎朝早く、女の人たちが起きると窓を開け、洗面してからメイドのピンク色の制服に着替える。
そして、昼休みや休憩時間になると、同じピンクの人たちが部屋に戻って来て、煙草を一服したり、お茶を飲んだりする。
いつも俺が眺めているのに気づいたその人たちは、手を振ってくれた。

   それから、ホテルの隣のカフェに、毎日夕方7時ころになると、花売り娘が来ること。
それを必ず買ってあげるのが、バーテンのおじさんであること。

   また、カフェの一部を占める煙草屋の娘と、若い小柄なギャルソンが恋人同士であることも分かった。
二人は夜遅く仕事が終わると、よく連れ立って帰る。
そんなとき、まずキスしてから、手をつないで浮き浮きと店を出て行くのだ。
掃除の仕方が悪いとでもいうのか、店のメートルにギャルソンがしかられると、メートルの見ていないところで、煙草屋の娘がそっと慰めていたりする。
俺は、あの黒猫と、そんな関係になれたらいいのにな――と、思わずにはいられなかった。





   学校が始まって1週間。みどりにも友達ができはじめた。
東京のおばちゃんでも、フランソワーズでもない人から電話がかかり、みどりがフランス語でしゃべることがあるからだ。
それに時々、この部屋にも友達が何人か来て、食事を一緒に作ったりすることもあった。
でもいつも女の子ばかり。
まだ、ダニーとのことを引きずっているのだろうか。

   生活も軌道にのり、俺も、なんとなくパリの空気に慣れてきたある日、ついにあの黒猫を見つけた。
最初に会った日に思ったとおり、黒猫はこのアパートのコンシエルジュの飼い猫だったのだ。
みどりと俺が、すぐ近くの例のアフリカの人が店番をしている果物屋でメロンを買っていたとき、俺の目の前をシャナリシャナリ、彼女が通りかかった。
俺はもう、なりふりかまわず後を追った。
後ろでみどりが
「シータス、シータス、戻っていらっしゃい」

と叫んでいたけれど、そんなもの構っちゃいられない。
すると黒猫は、コンシエルジュの家の開いた窓から、ピョンと家の中に飛び込み、
「勇気があるなら来てごらん」
といわんばかりに、ダイニングテーブルの上から俺を眺めた。

   さすがに俺も中までは追っていけず、窓枠に前足をかけてガリガリ引っ掻くのが精一杯だった。
後を追って来たみどりは、事情を察して、
「シーちゃん、お前恋したのね。分かるわ。彼女、すごい美人ですもの。だけど、後を追いかけて迷子になっちゃだめよ」
 と、やんわりしかった。

   俺は待った。俺が5階に住んでいることを彼女は知っていると確信をもっていたから、もし、俺にすこしでも気があるのなら、必ず様子を見にやってくるに違いないと思ったのだ。
だから、みどりが一緒に出掛けようと誘っても、もし留守の間に来てしまったらと思うと気が気でなく、よく、寝たふりをしてやり過ごすようになった。
to be continued

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