表のデュレ通りから降りられれば、窓の真下なのだが、忍者でもあるまいし、まさか直線に壁を降りるわけにもいかない。
そこで、寝室の窓から出て、裏の中庭に面した家のベランダづたいに、1階、また1階と、泥棒のように降りて行く。

   慣れない俺は、誰もいないと思ってピョンと降り立ったベランダに、おばあさんがいて、
「キャー、汚い野良猫! シッシッ。どかないと水をかけるよ」
と、どなられて、真っ青になったりした。
しかし、その隣の家は正反対で、俺がおばあさんの家から逃げ出して、次にどのベランダに飛び移ろうかと迷っていると、
「かわいい猫ちゃん、おいでおいで」
と、向こうから呼んでくれた。

   汚い野良猫なんて呼ばれて傷ついていた俺は、ホッとした思いでその家のベランダに飛び移った。すると、
「ちょうどよかった、昨日のキッシュが残っているから、おあがり」
とか言って、ごちそうまでふるまってくれる。
グリエールチーズの風味がきいた、ベーコンの塩気のほどよい、極上のキッシュだった。

「また寄ってちょうだいね」
なんて言われながらその家を後に、また1階下の家のベランダで、ジェラニウムの花をデザートに食べてから、めざすマダム・モーナンの家の裏窓に忍び寄った。

   窓はレースのカーテンがかかっていて、中がよく見えない。
しばらく、窓の縁にのったまま、どうしたものかと途方にくれていると、突然、ガーンと乱暴に窓が開いた。
当然、俺はアッパーカットを食らったように、窓縁から下の通りに振り落とされ、危うく脳震盪をおこすところだった。
ひっくりかえったまま窓を見上げると、ボンレスハムみたいな太い腕が、例の大きなショウガ色の猫の襟首をつまんで、ポイと通りに投げ出した。
「一体どこから忍び込んだんだい、この野良猫! さっさと出てお行き」
荒っぽい声がどなっている。
「もう二度と来るんじゃないよ。まったく、油断も隙もあったもんじゃない。
うちの大事なカルメンを!」

   マダムはもうカンカンだ。
投げ出されたショウガ猫は、腹いせに、そこにひっくりかえっていた俺に向かってフーッと威嚇すると、悠然と路地に姿を消した。

   俺は事情を察知した。
――大変だ。大事なカルメンが、あの大猫に襲われたに違いない――
おもわず俺は、無事を確かめようと、危険も顧みず家の中を覗き込んだ。
相変わらず家の中は薄暗く、よく見えなかったが、今の騒ぎでカーテンが半開きになったので、その透き間から覗くことができた。

   カルメンは別にしょんぼりしたり、パニックしている様子もなく、のんびりソファに座って毛づくろいをしている。そばでマダム・モーナンが、
「いいかい、カルメン、今度あんなドラ猫が来たら、寄せ付けるんじゃないよ」
と、言い聞かせている。
でも、聞いているのかいないのか、カルメンは我関せずといった様子のままだった。

   俺は、今の騒ぎで心臓がドキドキして、とてもその場に残っていられなかった。
こんなに苦心して、長い時間をかけて、下までたどり着いたというのに、カルメンを窓越しにチラリと見たまま引き下がるなんて……。
と、そこへ、お使いから戻ったみどりが通りかかった。
目が合う。文字通り、みどりはあまりの驚きに飛び上がった。

「まあ、シーちゃん。あなたったら、どうやって降りたの? 考えられない。なんて悪い子!」
と、ジャガイモやニンジンと一緒に俺を小わきに抱えると、プリプリしながら階段を駆け上がる。
家に入って、どのくらい油を絞られたかはここに書くまでもなかろう。



   それからさらに2週間が経った。
パリへ来てから3カ月目に入ったところだった。
あれ以来、パッタリ来てくれなくなったカルメンが心配で、またしてもみどりの留守に下へ降りた俺は、とんでもない光景を目にしてしまった。
コンシエルジュの家の裏口の、ゴミバケツをおいた陰で、カルメンが、3匹の生まれたばかりの子猫に乳を飲ませていたではないか。

俺は思わず駆け寄った。
と、カルメンは、びっくりして目を見開いてから、いかにもばつが悪そうに、俺から顔を背けた。
<ああ、赤ちゃん、もう生まれていたんだね。知らなくてごめんよ。一度訪ねて来たんだけど……>

   俺が途中まで言ったとき、物陰から、突風のようなものが俺に体当たりしてきた。
無防備だった俺はひとたまりもなく跳ね飛ばされ、コンシエルジュの家のドアにドスンとぶつかった。
ものすごい形相をした、例のショウガ猫だった。
身体中の毛を逆立て――だから、まるでライオンのようにでっかく見えた――牙を剥き出し、シェーッと吹いている。
<野郎! てめえか。まだカルメンにちょっかい出そうってのか。俺の家族に近寄るんじゃねえ! 今度この辺りをうろついているのを見つけたら、ただじゃおかねえから>

   瞬間、俺はすべてを悟った。
よく見れば、生まれたばかりの子供たちは、そろいもそろってショウガ色ばかり。
――そうなんだ。俺はただの浮気の相手でしかなかったんだ――
そう思って考えてみれば、今までおかしいと思っていたことが、すべてつじつまが合う。
寂しかった。
悲しかった。
悔しかった。
カルメンを残して日本へは帰れないなどと、あのみどりを捨ててまでパリに残る気になっていた自分が滑稽だった。



   自分も恋していたころは、みどりの心の揺れにも寛大でいられた俺だったが、初恋が、こんなひどい結末で終わってしまった今、恋とか愛とかいうものすべてが信じられなくなった。

   隆久から電話があるたびに、――みどり、気をつろよ――と、心で思う。
それに、窓から見えるエッフェル塔も、散歩で通る凱旋門もすべてが失恋に片棒担いだ犯人のように思えて、パリそのものにもほとほと嫌気がさしてしまったのだ。

   だからある日みどりが、
「ねえ、シータス、私、半年いるつもりだったけど、彼、毎日帰って来いってせっつくのよ、一度日本に帰ろうかしら。決心がつかなかったら、またパリに戻ればいいじゃない」
と言い出したときも、
<へえ、帰るんだ? いいようにすれば>
くらいの気持ちだった。

東京のおばちゃんやおじさんからは、
「目標を持って留学したのに、途中でくじけて戻るなんて、なんて意志が弱い」 とか、
「あなたが半年勉強に行くってことは最初から分かってたのに、それくらいも待てないような理解のない人は、先が思いやられる」
などと、批判的な意見を電話のたびに言ってきていたし、フランソワーズも、
「みどり、恋がすばらしく、結婚が女にとって一番大切だってことはよく分かるけれど、相手があの子じゃ、もう一度考えなさいってしか言いようがないわ。あなた、パリにいて、日本人が恋しいのよ。ここで、勉強も可能性もギブアップして帰国するなんて、とても残念。後で後悔することになるんじゃないかしら」
と、再三説教にやってきた。
おそらく、おばちゃんに頼まれたのだろう。

   それでも、所詮、人間も猫も同じ。
いざ、ある状況にはまっちまうと、周囲が見えなくなるものなのさ。

   みどりは帰国を決意したのだった。
オールヴォア パリ――いや、俺にとっては、アデュ パリ(永い別れ)だろうな、多分――ともかく、アビアント(またね)でないことだけは確かだった。

   期待と不安とともに、俺たちを乗せた飛行機は成田へ向かった。



   東京に帰ったみどりを待っていたのは、今までとはちょっと違った毎日だった。
何が違ったかというと、今までのように、みどりと両親の間がすっきりしなくなったことだ。
表面的には、なにひとつ変わりはない。
平和に、静かに時が流れて行く。仕事が忙しいおじさん、活動的なおばちゃんは、できるだけのアドヴァイスをしてしまえば、あとの判断はみどりにまかせるタイプの親だったから、努めてゴチャゴチャは言わないようにしている。

   みどりは隆久と出掛けることが多く、俺はあまり相手にしてもらえなかったから、ムサシと遊ぶしかなかった。
例によって、ドジなムサシは俺のいたずらに巻き込まれては失敗を繰り返す。
でも、娘のことが気にかかっているおばちゃんは、前ほど厳しく俺を監視しなくなっていた。

   一方、自分の魅力でみどりを日本に呼び戻したと思っている隆久は、有頂天。婚約者気取りで連日連夜、時間さえあれば家に入り浸る。
お客の大好きなムサシは、玄関のベルがなるたびに、
「アッ、きっと隆久さんですよ。僕、お出迎えしてこなくちゃ」
と、飛び出して行っては足に頭をすりよせるから、受けるのなんの……。
俺はちょっと引いて、観察を続けた。

   そんなある日、みどりが流感にかかって高熱を出した。
声も出ず、奴から電話がかかってもしわがれた声で、
「ごめんなさい、気分が悪くて」

   くらいしか答えられない。
と、早速、スポーツカーのエンジン音もけたたましく、奴がやってきた。
片手に花束、片手に点滴用具を携えて。
開業している実家の親父から借りてきたものだ。
「今晩わ。点滴の出前です」

   こいつはまいった。
小1時間かかって点滴をし、――そこで帰ればもっと評価は上がったろうに――その後、うつらつらしているみどりの枕頭に付きっきりで、手を握ったまま、3時間くらい動かない。
おばちゃんもおじさんも、迷惑しながらもその誠意にほだされてしまった。
点滴と花束は、次の日も届く。
「あなた、連日いらしてくださるのはありがたいんだけど、お仕事、大丈夫なの? 当直なんてないの?」

   心配してたずねるおばちゃんに、
「ありますけど、こっちの方が大切なんで、代わってもらいました」
と、涼しい顔。これが3日間続いた。 「あいつ、医者としては大成しないだろうけど、本当にみどりのこと、好きなのかもしれない」 おじさんがポツリと言った。


   この出来事をきっかけに、みどりの心はググーンと傾いたようだった。
みどりが治って3日ほどすると、今度は俺が倒れた。
寝込んでいるみどりにずっと付き添っていた俺は、多分流感をもらってしまったのだろう。
ゲーゲー吐いて、水も受け付けなくなり、目に白い幕がかかってしまった。
ムサシは、
<シータ君、大丈夫ですか? オメメが真っ白ですよ>
と、みどりの部屋の外から、顔半分だけ見せてたずねる。
  <ああ、大丈夫さ。うつるといけない。お前、入るなよ>
俺はちょっと寂しかったがそう言うと、
<ええ、ママにもそう言われたので、これ以上は入れないんです>
と、申し訳なさそうな顔をした。

   俺を獣医に連れて行こうとしているところへ隆久が駆けつけた。
今度は点滴ではなかったが、太い注射噐を携えて。
「人間だって、猫だって、ほとんどの薬は同じだそうですから」
と、人間様用の薬を、そこらにあったメモ用紙で怪しげな計算をして量を決め、ブスリ。
俺の襟首に突き立てた。フーッ。
俺は気がついたら絨毯に爪を立て、威嚇の声をあげていた。

   それでも、1時間もしないうちに気分がよくなり、食欲も出て、たちどころによくなってしまった。
みどりは、
「あなたって、名医ね」
と、手放しの喜びよう。
俺も、――こいつは使える――と思った。
そして、単純なもので、今までの観察記録から、すべていい結論を出してしまったのだった。



   パリから戻って、ひと月もしないうちにみどりは心を決め、両親には有無を言わせず婚約することになった。

   先方の両親がそろって、正式な結婚申し込みにやってきた。
父親の方は、ともかく単純に嬉しそう。
そして極楽トンボ型。
母親の方はというと、――ちょっと問題あり――だと俺は思った。

   まずは目がいかん。
満面に笑みを浮かべているのに、目だけ笑っていないのだ。
それに、妙になれなれしい。
おばちゃんは、1年に1回会うか会わないかくらいの知り合いだと言っていたのに、まるで親友みたい。
それに、おじさんにも敬語を使わない。

   両親のいる前で、本人が申し込みの口上を述べる。
俺は、おじさんの座っていたアームチェアの背もたれに飛び乗り、微動だにしないで、1段上の位置から隆久を見守った。
「お嬢様と結婚いたしたく、ご両親の許可をいただきにまいりました……」

   無事に口上を言い終わった隆久に、俺は――よくやったな――と、ほめてやるつもりで頭を擦り付けた。
すると奴の母親は、
「あらあら、猫ちゃんも、あなたによろしくお願いしますって言っているわ」
と、きた。
でも、まあ、めでたい席なので、そういうことにしておいた。

実は心の中で、これくらいおめでたい野郎なら、ダニーの時と違って、万事丸め込みやすく、使いやすいだろうというのが、賛成の理由だったのだが……。


   それからは狂ったような毎日だった。
ともかく、大切なことは何から何まで、すべて占いで決める先方のたっての希望で、式はわずか4カ月後ということに決まった。
その間に、新居探しから披露宴の手はずまで、すべて決めなければならない。
じっくり考える暇もないまま、時は矢のように過ぎた。

   新居は、みどりと隆久が10軒以上も見て回った末、ひどく庶民的な場所にあるにしては、いやに造りのいい小綺麗なアパートに決まった。

   ペット禁止というのが一つのネックだったが、それは、利口なシータスなら絶対バレないというみんなの意見で、ごまかしてしまうことになった。
俺は、まだそのアパートを見せてもらってはいなかったが、まずい人が来たときに気配を消してしまうのは得意だった。
だから、ペット禁止なんてことはさして気にもかけず、新しい生活が始まるということに、好奇心と期待をかき立てられていた。

   みどりの大車輪の忙しさに拍車がかかる。
俺はまた、日がな一日ムサシと二人での生活となった。
<ねえ、シータ君、君、またどこかへお引っ越しするのですか?>
ある日、ムサシがたずねた。
<うん。みどりがお嫁に行くんで、俺も一緒に引っ越しさ>
<エッ? シータ君もお嫁に行くんですか?>
<馬鹿言うな。お嫁に行くのは、み、ど、り。俺は、みどりについて引っ越すだけ>
<フーン。じゃ、みどりさんは、シータ君でなく、他の人のお嫁さんになるんですか?>
<そうさ。俺は猫。みどりは人間。結婚なんてできないだろうが>
<そ、そうなんですか?僕、知りませんでした。みどりさんは、シータ君の奥さんなのかと思ってました>

   このガス頭も、たまには俺の一番痛いところをついてくる。
相手は隆久だと説明してやると、
<ああ、あの人……。フーン。ちょっとがっかりです>
<なんで? お前、あいつが好きじゃなかったのか?>
<ええ好きですけど、あの人、いつもニヤニヤしてるばかりで、なんとなく頼りないみたいですから>

   ほら、こんなトロイ奴でさえ、あいつは自分よりトロイと思っているんだ。
ま、いいさ。みどりがちゃんと仕切るだろうから。



   ともかく、頭にくることは多かったようだが、披露宴にはパリのフランソワーズも、イサカ時代のルームメイトのベティーも、ジムと二人でやって来てくれ、さすがにダニーは来なかったが
(招待状を出そうにも、住所が分からなかったんだ。花嫁姿を見せたかったんだろうか? 女心って複雑だ)、
高校、大学の友達が大挙して集まり、ものすごく華やかな披露宴だったらしい。
こればかりは、俺も出席することはできず、みどりの一世一代の晴れ姿は、写真で見るしかなかったが。

   披露宴の晩、みんなが出払った家にムサシと二人、ヒーターの前でゴロリと横になり、削り節をクチャクチャ噛みながら、あれこれパーティーの様子を想像した。
<ねえ、シータ君、披露宴っていろいろなごちそうが出るんでしょうね?>
<そりゃそうさ。ありとあらゆるものが出る>
<シータ君なら、結婚披露も出たことがあるんでしょ? 例えばどんなものが出ましたか?>
<そ、そいつあむずかしいな。結婚する奴によって、すごく違うから。例えば、チキンとか、チーズとか、ドライフード……は、出ない。そうだ、魚も出るぜ。生のやつとか、焼いたやつとか>
<もちろん削り節も出るんでしょ?>
<あたりまえじゃないか。あれが出なかったら、みんな怒りだすよ>

   俺は、話している間に冷や汗が出てきた。
いまさら知らないなんて、口が裂けても言えないし。
そのうち、都合のいいことに、おいしい食べ物のことを考えていたムサシは、幸せそうな顔で眠ってしまった。
時々、ヒゲをブルブルッと震わせ、両手でモミモミする動作をしたり、口をモグモグさせていたから、きっと、パーティーに呼ばれて食べている夢でも見ていたのだろう。
これほど単純に暮らせたらどんなに幸せだろうと、俺はつくづく思った。

   明日はみどりが迎えに寄って新居に連れ帰ってくれることになっている。
俺は初めて新居を見る訳だ。
そして、新しい生活が始まる……。
丁と出るか、半と出るか……。

   先のことを考えるうち、目が冴えて、いくら寝返りをうっても眠れぬうちに外が白んできたのだった。



   新婚生活は、出だしから波乱含みだった。
俺の直感通り、やはりガンは母親だった。
息子が出勤している昼間、嫁は夫の実家に来るものと決め込んで、連日呼び出す。
   みどりも、初めの頃こそ何度か付き合ったが、ただテレビを見たり、他人の噂話ではなんとも時間がもったいない。
家事や片付けを口実に、逃れることが多くなる。
「あなた、家事だ片付けだって、一体何がそんなに忙しいの?」
と、姑が詰め寄る。
「慣れないもので、掃除や洗濯、夕食の支度に思いがけなく時間を取られて……」
「いつも答えは同じね。も少しましな言い訳でも考えたら? 本当は嫌なんでしょ、うちに来るのが。どうして?」

   ときた。そして、二言目には、
「かわいがってあげようと思ってるのに、あなたって、ちっともなつかない」
と、まるで拾ってきた猫のようなことを言う。
「口のききかただって、妙に他人行儀で」
……礼儀正しくして、怒られることもあるんだな。



   隆久はといえば、たまの休みは朝から実家に帰ったきり。
不要な摩擦を避けるため、なるべく一緒に行くようにすれば、俺を置き去りにすることになる。
隆久はそれなら猫も連れて行こうと言う。
あんな騒々しい犬のいる家など真っ平なのに仕方なく行った俺を、玄関で一目見たベスは
――それがこの家のミニチュアダックスの名前だ――
ワンワン吠えついたと思ったら、次の瞬間飛びかかって、鼻に噛みつこうとしたんだ。

   俺は素早いから身をかわしたところ、ベスはつんのめって大理石のテーブルにゴツン。
口の柔らかい肉を歯で切って血が流れ、キャンキャンキャンとすさまじい悲鳴をあげたもので、まるで俺が悪さでもしたように、家族全員に睨まれてしまった。
   その後の治療のおおぎょうだったこと。
テーブルの下に避難した俺を、次はシャム猫のメグが引っ掻く。
身体の大きさで言ったら断然俺の方が大きいから、最初は我慢していたのだが、あまりのしつこさに、とうとうフーッと言ってビンタを食わせた。
そしたらメグの奴、おびえてすっ飛んで行ってしまった。
「へえー、シータスって随分乱暴なんだー」
「って言うかー、せっかくメグが親切に、お友達になろうって言ってるのにー、マナー分かってないんじゃん?」

   妹たちの意地悪なコメントに、思わずみどりが反論する。
「家にいたころ、ムサシと喧嘩したことなんか、一度もなかったのよ。おかしいわね」
「ムサシがトロいからよ。シータスって、アメリカで拾ったんだっけ?」
「いいえ、ペットショップで買ったの」
「へえ、こんなトラ猫を、わざわざ買うなんて、チョーもったいない!」
と、姉妹で顔を見合わせる。
これでは喧嘩を売られているようなものだ。
俺は、思わずソファの下から躍り出ると、妹の足で爪を研ぎ、フーッと言ってやった。

「イタタタ! いやだこの猫、爪を立てる!」
「あら、猫の爪も抜かないで飼っているの?」
母親がとがめるような視線を向ける。みどりは顔を真っ赤にして言い返した。
「爪はちゃんと切ってます。私、嫌いなんです、そういうの。猫の爪を抜くなんて、動物虐待だと思います」
というわけで、俺は全員から嫌われてしまった。



   こんな具合では、新婚生活もうまくいくわけがない。
半年たつ頃には、かなり険悪な状況になってしまった。
俺もそばで見ていて、毎日ハラハラする場面に遭遇する。
最初のうちは、二人の間に緊張が高まったと感じたとたん、どちらかの肩に飛び乗って顔をなめるとか、わざとバカなことをして、二人が笑い出すようしむけたりしていたが、いちど隆久に、
「うるさいな、シータス。どいてろよ。お前がいるからよけい話がこんがらがるんだ」
と乱暴に肩から払い落とされて以来、その言葉が胸に突き刺さり、隆久がいると、なんとなくおずおずするイジケ猫になってしまった。

   しかし、みどりもかなりきつい性格だから、嫌なものは嫌と、梃でも譲らない。
理由をつけては親戚の集まりを欠席したり、
――だって、毎月何かの口実で、母親サイドの親戚全員が集まるんだ――
一緒の外出にも参加しない。
当然、姑の怒りはみどりに集中し、気弱な父親の方はただオロオロするばかり。
妻の言い分が間違っていたって、たしなめることすらできない。

   険悪な家庭の雰囲気に耐えられなくなったのだろう、ほんの一夜、銀座のクラブの女と浮気をしたのが妻にバレて、事態はますます悪化した。
――すべてはあのみどりのせいだ。あれはわが家の疫病神だ――
こんな考えが母親の頭の中で、原爆キノコのように膨らんでいったのだった。

   なんとかみどりをやっつけようと、姑が思いついたのが、俺を人質にとることだった。
管理人に電話をかけ、みどりの家では契約に違反して、猫を飼っているとチクった。
早速、管理人が乗り込んできた。
俺は、事情は詳しく分からなかったが、ともかく誰か来訪者があったとき、みどりに呼ばれるまではベッドの下で気配を消すことにしていたから、15分以上もかけて管理人が家捜ししたにもかかわらず、俺を発見することはできなかった。
その報告を受けた姑は怒り狂った。
それではと、自ら大家の自宅に出向き、
「本当に申し訳ございません。息子たちが、内緒で猫を飼い始めまして、いくらいけないと申しましても聞き入れません。規約にもペットは禁止とありますので、大変残念でございますが、契約を解約させていただきます」
と、あっさりアパートの賃貸契約を打ち切ってしまったのだ。
そして、みどりの留守にポストにメモを張り付けた。
『猫を飼っていることがバレ、契約を解約されました。私までお詫びに行かされ、まったくいい迷惑です。今月中に引っ越しなさい』

   さすがにあわてたみどりが、姑に電話をかけ、
「今月中とおっしゃられましても、もう25日です。1週間もないのに、どこへ引っ越したらよろしいのでしょう?」
「そんなこと聞かれたって困るのよね。隆久ちゃんだって、もうあんたなんかたくさんって言ってるんだから、猫を連れて実家に帰ったら?」
売り言葉に買い言葉。

   みどりは、その日のうちに、カバンひとつさげ、俺を入れたバッグを肩に、結婚11カ月目にして、実家に戻ってしまったのだった。
ドアのベルが鳴ったのを聞いて、例によって真っ先に飛んで出たのはムサシだった。
ドアが開くなり(ベルを鳴らしたものの、みどりは合鍵を持っていた)みどりと俺を見たムサシは、
<アッ、みどりさん、シータ君。ワーイ、遊びに来たんですね。ママ、ママ、みどりさんとシータ君が遊びに来ましたよ!>
と叫んだ。

電話で、あらかじめ話を聞いていたおばちゃんは、暗い顔付きで
「ほんとに、なんてことでしょう。さあさあ、お入りなさい。二人ともかわいそうに」
と、俺のカゴを受け取り、中から抱き上げてほおずりする。
いままで肩をそびやかして頑張っていたみどりも、母親の顔を見たとたん、ワッと泣き伏した。
to be continued

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