実家に戻ってからの毎日は、そう楽しいものではなかった。
第一、みどりがお嫁に行ってすぐ、実家は大幅に改築してしまっていたから、俺たちの部屋もなく、客間にスーツケースを広げての難民キャンプ生活なのだ。
おじさんは、心の底では、娘が無事に戻って来たのでホッとしていたのだろうが、自分の言葉に耳を貸さず、自らの選択でジョーカーを引き抜いた娘を全面的に受け入れたのでは教育にならないと、心を鬼にして、ひと月以内にどこかアパートに移るように宣告した。

   ただ、助かったのは、「家賃と生活費は定職が見つかり、自分で払えるようになるまで面倒をみてやる」と言ってくれたことだった。
みどりは、足を棒にして、手頃な家を探したが、ちょっといいと思うところは、ほとんどといっていいくらい、ペット禁止だった。
俺は、また、自分がみどりの足を引っ張っているのを感じて、本当に申し訳なかった。

   やっと実家の比較的近くに一室を見つけた。
風呂もなくシャワーがあるだけのワンルーム。
でもみどりは、
「お風呂なんて、ママの家に入りに行けばいいさ」
と、涼しい顔。
本当は、このアパートもペット禁止だったのだが、また、ごまかして入ってしまったのだ。

   膨大な嫁入り家具の類いは、近々お嫁に行く友達にあげたり、実家の倉庫に無理やり押し込んだり。
必要最低限のものだけの部屋は、すっきり片付いて居心地よさそうに見えた。
俺は、絶対に見つからないようにすることを心に誓った。

   定職の見つからないみどりは、毎日、朝になると実家に通った。
俺を連れて、朝御飯も食べずに。
家にさえ行けば、食事もおやつもある。
暖房も冷房もタダ。
いままででいちばん楽な毎日だったのかもしれない。

   それを見て、おじさんは、反省がないと不機嫌になった。
そりゃそうだろう。
おじさんとしては、相手が気に入ってもいないのに、一世一代の花嫁支度を整え、あのばかばかしく派手な披露宴を催したというのに、大切な一人娘が、1年たらずでお払い箱にされたのだから。



   気持ちはよく分かっているけれど、この俺に何ができるというのだ。
例によって、ムサシをからかってパニックさせては怒られたり、ちょっと臍を曲げて、オシッコをひっかければ、臭いが消えないと家中の不評を買う。
次第に、おじさんの怒りの矛先は俺に向けられるようになった。
そこでまた、俺がほんの出来心で、おじさんの刺し身をつまみ食いした現場を押さえられるということがあって、ついにおじさんは爆発した。
「お前がこの家に来るのは、まあ、お情けで許してやろう。しかし、このろくでもない猫は出入り禁止だ」

   というわけで、その日以来、みどりが実家に行くときは、おじさんが出社している留守を狙う、空き巣型訪問となった。
たまに、何かで出社が遅かったり、突然昼間戻って来て……なんて、ニヤミスもしょっちゅう。
俺はいつも、昼寝していてさえ耳の神経だけは休ませず、おじさんの足音が聞こえると、サッとおばちゃんのベッドの下にもぐりこむのだった。
 ――なんだかこれ、イサカ時代にダニーが来たときみたいだ。やれやれ、またあの状態に逆戻りか――。

   いつだったか、おじさんがどこかで極上の丸干しをもらい、上機嫌で帰ってきたことがあった。
おじさん自身は丸干しは嫌いだが、猫たちの喜ぶ顔が見たいと、張り切っていたのだ。
(もちろん俺はいないことになっているから、翌日みどりがやればいいと思っていた)
「おい、おい、ムサシ、お土産だぞ。お前の大好きなものだ」
 例によって玄関に正座で出迎えたムサシは、
<アッ、パパ、ありがとうございます>
 と、丁重に受け取り、その場でがつがつ食べ始め、ふと気が付いて、大声で俺を呼んだ。
<シータ君、シータ君、パパがお土産をくださいましたよ。早くおいで。早くったら>
 このときほど、人間が猫語を分からないのがありがたかったことはない。

   俺は、――あの馬鹿野郎。黙れ。黙って丸干しだけ持って来い――と、思いながら、ベッドの下でイライラしていた。
でも、かわいそうに、あの単純なムサシに、俺の複雑な立場が分かるはずはないのだ。



   そうこうするうちに、みどりも定職が見つかった。
ところが、俺を一日ひとりで部屋に置いておくのはかわいそうだとみどりは思った。
また、おばちゃんは、いたずらなシータだから、ひとりで放っておいたら何をしでかすかわからないから危険だと考えた。
そこで、隣のおばあちゃんの家に預けることにした。

   おばあちゃんは優しかった。
俺を猫っかわいがりする。おばあちゃんが一生懸命俳句を作っている机の上にチョン――本当はドサンって感じだが――と飛び乗り、お得意の小首をかしげたポーズで覗き込んでいると必ず、
「まあ、シータ君、いい子ね。おばあちゃんが俳句作るの見て、お勉強しているの? じゃ、ごほうびに削り節をあげましょう」と、くる。

また、掃除をしているとき、掃除機にぶつからないよう避けながら、障害物競走をして遊んでいると、
「シータ君、いい子ね、お掃除の邪魔にならないようにしてくれているのね。じゃ、ごほうびに削り節をあげましょう」となる。

   テレビを見ながらウツラウツラしているおばあちゃんをびっくりさせようと、背中に飛び乗って前足でモミモミなんてしようものなら、
「あらあら、肩も揉んでくれるの。優しいわねシータ君は」
と、また削り節だ。
チョロイチョロイと、最初はおばあちゃんをバカにしていた俺も、毎日接しているうちに、年をとるって、寂しいことなんだと思うようになった。

   隣に住んでいる娘は、毎日一度、必ず顔を見に来てくれるし、食事に招いてもくれる。
病気になれば全部面倒を見てくれる。
だけど、元気なときは毎日の大半を一人きりで過ごさねばならない。
一人で寝て、一人で起き、一人で御飯を作って一人でテレビを見る。
まあ、おばあちゃんは出掛けるのが大好きだから、毎日必ず、何時間かは外出するが、それも、何もすることがないのが怖いかららしい。
社会から取り残されてしまうのが怖いのだ。
そして、自分も社会の出来事に無関心になってしまうのが。

   だから、俺の世話を引き受けたのも、出戻り孫が仕事に行く間、ひ孫を預かって手伝ってあげよう。
自分でなければできない――その感覚がまんざらでもなかったからだと思う。
俺も、何かおばあちゃんの役に立ってあげたいと思うようになった。
でも、猫の手も借りたいって表現があるように、猫ってのは、よくよくの状態にならない限りみそっかすなんだ。

   そこでまず俺は、ちょっと耳の遠いおばあちゃんの耳になってあげることを思いついた。
リーン、リーン、リーン、リーン、そのあたりで俺がフンニャーとおばあちゃんに飛びついて、電話の方に忙しそうに走っていくと、
「あらあら、電話が鳴ってたの。シータ君、なんて耳がいいんでしょう。ありがとうね」

   ドアのベルが鳴れば、俺は階段を駆け上がったり、駆け降りたり、おばあちゃんがいやでも気が付くように派手に動いてあげるんだ。
おばあちゃんも、俺の努力が分かってくれる人なんで、娘や孫に、
「シータ君って、本当に頭がいいの。おばあちゃんにいろいろなことを知らせてくれるのよ」
と報告して、俺の鼻を高くさせた。



   ところがある日、俺はそんなおばあちゃんにとんでもないことをしてしまったんだ。
もちろん、悪気は毛先ほどもなかった。

   おばあちゃんの寝室の隣の小部屋に、中国のドールハウスみたいなものがあるのが、俺は前々から気になってしょうがなかった。
真っ黒で小さい、あずまやみたいな格好のドールハウスで、いつもきれいな花が飾ってある。
でも、中に家具もお人形もいなくて、変な立て札みたいなものがあるだけなんだ。

   おばあちゃんは、毎朝そのドールハウスに、御飯と――トーストのときもある――お茶、それにお水をあげる。
俺は、きっとあの奥にドアがあって、そこを開けると小人かなんかが住んでいるんじゃないかと想像していた。
でも、おばあちゃんと一緒にその部屋に何度も入ったけれど、そいつらの影を見たこともない。
きっと、人がいると出てこないで、人がいなくなると出てくるに違いない。

   そこで俺はある日、おばあちゃんが御飯をあげに行ったときにそっと忍び込み、待つこと30分。
おばあちゃんが出掛ける音を確かめてから行動に移った。

   俺の跳躍力なら、タンスの上にあったって、ひとっ飛び。
ピョン! ――オットットット。
なんて狭いんだ――ビシャッ、ガッチャン! 
奥の壁に突き当たりそうになって花を落としてしまった。
おまけに平衡を失いそうになった身体をささえようと、前足でドールハウスの桟みたいなところをつかんだら、その振動で、中にあった立て札が転がった。
――アララ……こいつはだいぶ散らかしちゃった。
怒られるな。
ま、しょうがないか――俺は、毒を食らわば皿までの心理で、おばあちゃんが毎朝あげる御飯も平らげ、コップの水を飲んだ。

小人はいなかったけど、しばらく中に入っているうちに、なんだかこのドールハウスがいたく気に入ってしまった。
2階建の家の1階には、座布団の上に、金属製のお椀みたいなものが乗っかっている。向きを変えたとき、首輪のIDメダルが当たると、チーンと、それはきれいな音がした。
俺は夢中になった。
音には結構うるさいほうなんで、その澄んだ金属の音に魅せられ、何度も何度もメダルをぶつけてみる。



   やがてそれにも少し飽きてきたとき、もうひとつ、おもしろいものを見つけた。
とてもいい香りのする、竹串みたいなものの束だ。
それは、触るとバリバリと砂糖菓子のように折れる。
その折れたやつを踏み付けると、さらにバラバラ。
おもしろいのなんの。
またしばらくそれで遊んだ。
ムサシもこんなことして遊べたら、喜んだだろうな――あいつの真ん丸い童顔が浮かぶ。

   すると、その隣に、ローソクがあるのを見つけた。
これは俺も知っている。
暖炉の上に置いてあるのと同じで、かじると、ちょっと歯ざわりがいいんだ。
別に味がいいんじゃない。
ただ、なんとなく、あのコリコリした噛み味がいけるんだ。

   いい香りの棒を折って、ローソクを噛んで、水を飲む。
そして、時々チーンとメダルで音楽を奏でる。
やがて遊び疲れた俺は、その居心地のいいドールハウスでぐっすり眠ってしまった。

   目が覚めたのは、ドアのノブが回る音がしたからだ。
――いけねえ! おばあちゃんが帰って来た――
俺は体勢を整え、ドールハウスから飛び出した。
ピョンと踏み切ったのと、おばあちゃんが部屋に入って来たのと同時だった。
「ギャーッ!」

   おばあちゃんは、ものすごい悲鳴をあげて倒れた。
そのまま動かない。
もしかして、死んじゃったのかな。大変だ!

   俺は、おばあちゃんの顔をなめたり、手を軽く噛んでみたり、いろいろやってみた。
だが、ピクリとも動かない。
すると、台所の方から、大きな足音をさせて、おばちゃんが走って来た。
「バアバ、どうし……アッ! だ、大丈夫?」
と、抱き起こす。

   おばちゃんは、おばあちゃんが、口をパクパクさせながら、俺の入っていたドールハウスの方を指さすのを見て、すべてを悟った。
「ははーん。シータスね」
「お、お仏壇の中から……ハアハア、な、何かがいきなり私に飛びついて……アワワワ」
 息も絶え絶えって感じに、おばあちゃんが説明しようとしている。
「コラッ、シータス! お仏壇に入ったのね」

   一応俺を怒鳴りつけておいてから、おばあちゃんを立たせようとする。
「あ、イタタタタ……」
おばあちゃんは、おばちゃんの腕の中で崩れるように倒れてしまう。
どうやら、しりもちをついた拍子に、腰を痛めてしまったらしい。
それから、救急車で病院にかつぎ込まれたおばあちゃんは、そのまま入院してしまった。

   その晩、俺を連れに、おばあちゃんの家に戻ってきたみどりを待ち構えていて、おじさんが言い渡した。
「みどり、今日の話はママから聞いたと思う。もちろん、シータに悪意があったなんて思わない。だが、お前の為に、ひとがどれくらい迷惑を被っているかよく考えなさい。シータをきちんと躾けなかったのはお前のせいなんだから。 もし、この先もこの猫を飼い続けると言うなら、人に頼らず自分一人で飼育するように」
みどりが叱られている間、俺は隣の部屋ですべてを聞いていた。



   それからは毎日、みどりが留守の間中、一人で留守番するようになった。
狭いワンルーム。
何をしてもすぐ飽きて、結局はゴロ寝ばかり。
時間が止まったような毎日。
ひたすら時計の針が進むのを眺め、みどりの帰りを待つ。
針が早く進めば、みどりも早く帰るかなと、鼻先で押して進めてみたこともある。
でも、結局みどりは、うんざりするほど長い時間待たなければ戻ってこなかった。

   いつしか、俺は、いろいろなことを考えるようになっていた。
なかでも気にかかってよく考えるのは、アメリカ時代に、みどりが手相を観てもらった、ジプシー占い師の言ったことだった。
――あんたの飼い猫が、あんたの結婚の邪魔をするよ――。
もし、みんながよく言うように、女の幸せが結婚なんだとしたら、俺は、大好きなみどりが幸せになるのを妨害していることになる。
それじゃまるで悪魔みたいじゃないか。
そんな邪悪な猫を飼っているみどりは、なんて不運なんだろう。
なんとか運命を変えることはできないのだろうか?

   餌を食べないで、俺が死んじゃったら……そしたらみどりは幸福になれるのだろうか? 
でも、俺が死んじゃったら、みどりはとっても悲しくて、泣くだろう。
何日も、何日も。
そしたら、やっぱりみどりを不幸にすることにならないか?
俺の考えは、いつも堂々巡りするばかり。
結論に達する見通しは、まるでなかった。














   みどりと二人きりの生活が始まって半年が過ぎた。
幸い、おばあちゃんの腰も元通り回復したが、さすがのみどりも、また俺を預かってくれとは言えない。
俺は、完全な鍵っ子になった。

   このワンルームアパートは、玄関を入るとまず廊下になっていて、右手の扉の中は、トイレ、シャワールーム、洗面所と、台所だ。
正面の扉を入ったところがリビング兼ダイニング。
そして、隅の一角にベッドがおいてある。
狭いけれど、リビングは南側が全面ベランダになっているので、明るいし風通しもよかった。

   時々、おばちゃんが遊びに来ると、大好物の削り節とか、新製品のキャットフードなど、俺へのおみやげも忘れなかったし、
「シーちゃん、一人でお留守番じゃ寂しいわね。ムサシも寂しがってるわ」
なんて、優しいことを言ってくれた。
でも、遊びにいらっしゃいとは言ってくれなかった。
みどりのほうからも、けっこう頻繁に実家には行っているが、俺はお留守番。
なんだか一人仲間外れみたいで寂しかった。

   ともかく時間はあり余るほどあった。
そう寝てばかりもいられないから、もっぱらベランダ(と言っても、猫の額ほどの狭さだが)から外を眺めて、いろいろな事を観察し、学習する。俺がベランダに出ている姿を目撃されでもしたら、また家を失うから、みどりはいい顔をしなかったが、なにしろ狭いので、あまり厳しいことも言えなかったようだ。

   ベランダは、洗濯機を置く場所があり、雨の日にも洗濯物が干せるようにと、温室のようにガラスで覆ってあったから、外からあまりよくは見えない。
それに、ちょっと放浪癖がある――と、みどりは思っているらしい――俺でも、表に出ることは難しかった。

   表を眺めていて一番最初に気が付いたのは、同じ東京で、15分ほどしか離れていないというのに、以前みどりが結婚していたとき住んでいた辺りとは、雰囲気がまるで違っていたことだ。
あの辺のおばさんたちは、みなエプロン姿で、足には突っかけ。
中には、頭にカーラーを巻いたまま、ちょっとスカーフを被っているだけなんて人もいて、びっくりしたものだ。
でも、真向かいが魚屋だったので眺めていて楽しかった。

   ところがいま住んでいるところときたら、立ち並ぶ店はほとんどが若者向けのファッション・ブティック。
その間に、こじゃれた花屋やカフェが挟まっていて、生活必需品はどこで売っているんだろうと不思議だった。

   アパートの前を通る人達はというと、圧倒的に多いのが、乳母車を押した若いママさん。
広くない通りを、乳母車を押した人達が、二列、三列横隊になって、両側に並んだブティックをのぞいて行く。
だから車なんて通れるはずはない。俺のおふくろは、いつも、みんなで出掛けるときは、一列縦隊で歩きなさい。
って、そりゃうるさく言っていたものだったのに。

   若い人たちに押しのけられたお年寄りが、道の端の、水捌けのために傾斜したところを、電信柱を避けながら歩いているのがかわいそうで、とても危なっかしく見えた。
そんなことを考えながら外を眺めていると、夜になるころには、なんだか自分がひどくジジ臭い猫になったような気がした。
いや、俺だってもう結構な年だ。
なにしろ、イサカで迷子になってから、6年以上たつんだから。
――そうか、俺もかれこれ7歳になるんだな――
立派なオヤジ猫だった。



   住宅街ってところには、正規の住人と登録されたペットのほかに、ノラ猫がかなりの数、非公式に住んでいることも知った。
そして、彼らにもまた、アメリカと同じように、それぞれ縄張りがあり、それを仕切るボスがいることも。
   ここらで目下いちばん勢力を持っているのは、ニンジン色のトラ猫。
(こいつは、あのパリのショウガ猫を思い出すんで不快だ)
そいつの彼女が、とびきり美人の白猫。
そして、虎視眈々と跡目を狙っているのが、ちょっと毛足の長いタヌキみたいなキジ猫だ。
こいつは、ペルシャの血が混じっているに違いない。

   なぜ、いちばん勢力のあるオス猫が分かるかと言うと、ここらの若猫のほとんどが、そいつの色合い、顔の造作を受け継いでいるからだ。
鼻の辺りの斑の入りかげん、目の形、尻尾の長さ、形……猫同士が見れば、誰の系列かは一目瞭然だった。

   そのニンジン色のオヤジ猫が、子猫3匹と母親を引き連れて、毎日アパートの前を散歩で通りかかる。
いや、散歩というより、食事に出掛けるのだろう。
子供たちは、まだ3、4カ月。
やっと乳離れしたところで、俺は――おいおい、悪いものでも拾い食いして、下痢をするなよ――なんて、つい余計な心配をしてしまう。
それでも、親子そろって行動している一家を見るのは、なんとなく心温まる思いがして楽しかった。

   そんなに用心深い一家だったのに、ある日、母親猫が消えた。
まったく消えたと言うよりほかないくらい、きれいさっぱり姿を消してしまったのだ。
俺は、もしかしたら車に轢かれたか、たちの悪いいたずらで殺されでもしたのでは……と、心配でならなかった。

   何日しても、母親猫が戻らなかったばかりか、次はオヤジ猫さえ見当たらなくなってしまった。
通常、オヤジ猫は母親猫ほど子に愛着はない。
それに、いろいろ社会的な用事もあるから、単独で外出することも多い。
子供に興味を無くして捨ててしまったのか、それとも、喧嘩に負けて、この界隈から追い出されてしまったのかもしれない。
男の世界は厳しいから、何が起こっても不思議はないと思った。

   では、子猫はどうなるのだ? 
俺は、何もできないからなおさら、心配で心配でならなかった。
夜など寝ていると、子猫が悲しそうにミーミー鳴く声が聞こえる。
耳をピンと立て、すっくと立ち上がると、みどりは、
「シーちゃん、あなたには関係ないでしょ。よその子猫よ」
と、寝かせようとする。
それでもあまり激しく鳴くもので、みどりもほおっておけなくなって、二人で窓を開けたり、ベランダに出たり、闇に目を凝らすこともたびたびだった。

   それから2、3日した昼間、俺が例によってウツラウツラと昼寝をしていると、ガサガサ、ゴソゴソ、近くで何かを引っ掻く音がする。
――泥棒かな、どうしよう―― 
俺は身構えた。
しかし、人間にしては音が小さすぎる。

   俺は思い切って音のする方へ近寄った。
音はベランダから聞こえてくる。
まずそっと覗いてみる。何もいない。
さらに耳を澄ませ、目を凝らして見回すと、ベランダに置きっ放してあった、空の段ボールが、わずかに動いたような気がした。
箱に近づき、後ろを覗いた。



   子猫だった。
――でも、どうやってこのベランダへ?――
  懸命に見回すと、段ボールの後ろのガラスに、ほんの小さな穴があいていた。
前の住人が、排気パイプでも通していたのか、直径5、6センチくらいガラスがくりぬいてあった。
ちょうど隣との仕切りの陰で隠されていたため、引っ越したときから今日に至るまで、みどりも俺も気が付かなかったのだ。
それをどうやって見つけたのか、また、どうやって3階のこのベランダまで上ってきたのかは知らないが、子猫が見つけて入り込んでいたわけだ。

   ミヤー、ミヤー、耳まで裂けそうに大きく口を開けて、俺に訴えかける。
<おじちゃん、おじちゃん、お腹が減った。何かちょうだい、何かちょうだい>
<おいおい、お前、一人だけなのか? 兄弟はどうしたんだ? お父ちゃんと、お母ちゃんは?>
子猫は何も分からないらしく、ただねだり続ける。
俺はあわてて奥に入りドライフードの袋を引きずってきた。
<ほら、俺の御飯だけど、食えよ>

   子猫はむしゃぶりつくように袋からこぼれたドライフードに飛びかかる。
大きな口一杯にほお張って、バラのトゲほどの歯で、必死にかみ砕こうとする。
しかし、真ん丸く固いドライフードでは、文字通り歯が立たない。

<おじちゃん、食べられない。固すぎるよ>
<だめか? 一生懸命噛んでごらん。それでもだめ?>
ドライフードの粒々に歯の跡が付くだけ。
とてもバラバラになるほど噛めない。
そこで俺は考えた。
――そうだ、削り節だ――。

   台所の戸棚を開け、削り節の袋を持ち出す。
これはチビでも十分噛めた。
<おじちゃん、おいしい。おじちゃん、すごーくおいしいよ>
喜んで食べる子猫に見とれているうちに、かなり大きな袋だったが、大半カラになってしまった。
<おじちゃん、お喉が渇いた>
<ちょ、ちょっと待ってな>

   俺は家に入ってみたが、まさか、いくら俺でもヤカンに水を汲んでいくことはできない。
でも、よその猫を家に入れたら、みどりが嫌がるだろうな……水の入った俺の茶碗を鼻先で押して、ベランダの近くに運んだ。
おおかたこぼれてしまったが、それでも子猫はピチャピチャとおいしそうに飲んだ。



<お前、家はどこだ?>
<家? 家なんてないよ>
<でも、どこかに住んでるんだろ?>
<えーと、いろんなとこ>
<いろんなとこって?>
<こことかー、このアパートの縁の下とかー>

<こことかって、お前、前からここにいたのか?>
<うん。お父さんがいなくなってから、3匹で見つけたんだよ。だって夜、寒いんだもの>
<そうだよな。もう夜はだいぶ冷える。で、お父さんどこへ行ったんだ?>
<知らない。夕御飯食べに行ってー、その後、お父さんは用があるから、お前たち先に帰ってろって言ったきり、戻って来なかった>

<お母さんは?>
<分からない。朝、目が覚めたらいなかった>
<じゃ、今は3匹だけになっちゃったのか?>
<ううん。一人ぽっち。お兄ちゃんたちも、どっかへ行っちゃったんだ>
<なに、お前一人なのか? そんなチビなのに?>
<うん。だってしょうがないよ。誰もいなくなっちゃったんだもの。嫌だな、みんな。どこへ行っちゃったんだろう>

   俺が変なことを聞いたから思い出してしまったのだろう。
子猫は泣きはじめた。
あわててあやしながら、俺は、――しょうがねえな。
めんどう見てやらなくちゃ、死んじまうじゃないか――と、思った。

<いいか、ここのお姉さんはとってもいい人で、おじちゃんの仲間なんだけど、このアパートは猫がいちゃいけない規則になってるんだ。だから、お前、ここに出入りするところを絶対見つかっちゃいけないぞ>
<うん。でも、ね、それじゃなぜ、おじちゃんはこの家に住んでていいの? どうして規則違反にならないの?>
<う、うんにゃ、俺だっていいわけじゃねえ。だから、いないことになってる。絶対音を立てないし、鳴かないし。そしたら、誰も俺がいるって分からないだろ?>

<じゃ、おじちゃんも本当はノラ猫さんなの?>
<じょ、冗談じゃねえ。俺は立派な飼い猫さ。ここのみどりってお姉さんの大事な猫。ただ、事情があって、今はこのアパートに住んでなきゃならないから……もうつべこべ聞くなよ>
<うん、分かった。じゃ、もう眠いから寝るよ>

   まったくいい気なものだ。
子猫の奴、腹がいっぱいになったら、さっさと箱の中に入って、ゴロリと寝転んだ。
<おい、じかじゃ寒いだろ? 今、何か布団になるもの、持ってきてやる>
<大丈夫だよ。あったかいよ。だって、ここを見つけるまでは外で寝てたんだもの>
子猫は、キラキラ光る目で俺を見上げながら、幸せそうに言う。
――こんなに小さいのに。一人ぽっちなのに――
俺はホロリとしながら家の中に、なにか布団になりそうなものを探しに行った。

   ちょうど、玄関の上がり口に、昨日みどりが外したままのマフラーがあった。
――これこれ。これならフワフワであったかくて、おふくろさんみたいな感触だろう――
俺は、うまいものを見つけたうれしさに、前後の見境なく、マフラーを引きずっていって、段ボールに入れてやった。
子猫は、すぐにそれにくるまると、
<おじちゃん、ありがとう。すごーくあったかい>
と、大喜びだった。
to be continued

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