みどりが帰ってきた。
その前に、俺はベランダから、削り節の袋もドライフードの袋も台所に戻してはおいたが、もちろん戸棚にしまえるわけがない。

   みどりは、
「あら、シーちゃんったら、お腹が減っちゃったの? こんなにつまみ食いして。悪い子。それにしてもよく食べたわねー」
と、呆れ顔だ。
それに、水飲み茶碗を引きずった後も発見されてしまって、
「あら、ちょっと、この水なに? オシッコじゃないでしょうね」
とクンクン臭いをかいで、
「オシッコじゃなさそう。でも、どうして水をこぼしたの?」
そして、ベランダのそばに水飲み茶碗があるのを発見すると、
「なんでここで飲むの? どうしてお台所で飲まないの?」 と、いぶかしがる。そして、ついに、
「アッ、そういえば、私のマフラー知らない? 昨日玄関で脱いだままで出掛けちゃったんだけど?」
と、探し始めた。

   俺は、これはまずいとそっぽを向く。
――あんなに何本もあるんだから、1本くらいなくたっていいじゃないか。あのお陰で、子猫が1匹、凍死しないですむんだぜ――と、言ってやりたい気分だった。

   みどりは、変だとか、おかしいとか言いながらも、俺に夕食をくれ、自分も昨日の残りのシチューを暖めて食べた。
いつもならここで、二人してテレビを見ながら夜を過ごすのだが、何を思ったか、今夜はこれから洗濯をすると言う。

「今週末は、大学時代のクラスメートが集まるの。アメリカからも何人か来るのよ。楽しみ。それでお洗濯してる暇がないから、今週は今夜やっておこうと思って」
と、いうことらしい。
俺は、心の中で、――どうぞ子猫が見つかりませんように――と、祈った。



   みどりは、そう多くもない洗濯物を、部屋のなかから身を乗り出して洗濯機に放り込むと、ソファにゴロリと横になり、テレビを見始めた。
――よしよし、これなら気づかないだろう――
ところが、洗濯物を干す段になって、ベランダに出て電気をつけると、段ボールの下から、自分の大切なマフラーが覗いているのに気づいた。

「あら、私のマフラー……?」
俺は、思わず両手で顔を覆った。
「あら、箱の中に何かいるわ」
けげんな顔でのぞき込んだみどりの顔が、パッと輝いた。
「あら、シータス、見てごらん、子猫ちゃんよ。箱の中に……」

   言いかけて、みどりはハッと気が付いた。
そうさ。子猫が自分で家の中からマフラーを取って、箱の中に持ち込むはずがないのだ。
「シータス、あなたまさか――?」

   ベッドの下にもぐりこんだ俺を見て、みどりは事情を察知した。
でも、怒鳴り声も、わめき声も聞こえない。
こわごわ顔を出してみると、みどりが子猫を抱き上げているではないか。
子猫の方は、ちょっとおびえて隙あれば逃げ出そうと、身体を固くしている。
俺は、みどりの足元に絡み付き、ヒゲをサンダルにこすりつけた。

「フフーン、シータス、あなた、子猫を拾ったってわけ?」
<ニャー>
「ここはペット禁止なのよ。どうするの?」
<フンニャー>
でも、もともと、子猫に目がないみどりが、こんなかわいそうな子を追い出せる訳がない。
「しかたないわね。どうするか、よく考えてみるけど、ともかく、今夜は雨も降ってるし、お泊まりしていきなさい」
優しく言うと、子猫を箱に戻した。

   洗濯物を干し終わり、家に入ったみどりは、俺をしげしげ眺めながら言った。
「ねえシータス、あなたあの子猫に自分の餌をあげたのね。でも噛めないんで、削り節をあげたんでしょ? それにお水も。あなたって、優しいのね」
もっと怒られるかと思ったのに、なんだか褒められたみたいで、くすぐったかった。
「だけど、どうしよう。あなた1匹だって、ビクビクものなのに、2匹になったら……。ま、いいや、今夜は疲れてるし、また明日考えよう」
ということになった。

   ベッドに入ってから、みどりは誰に言うともなしに、
「毎日一人でお留守番じゃ、シータスも寂しいのよね」
と、つぶやいた。
子猫がぬくぬく眠っていると思うと、俺も安心してよく眠れそうだった。
この事が、みどりにとんでもない不幸を招こうなんて、思ってもみなかったのだ。



   次の朝、子猫にふやかして柔らかくした俺の餌を与えてから、みどりはノミ取り用ドライシャンプーを振りかけて、丹念に子猫をブラッシュし、次に俺のこともゴシゴシ肌が擦りむけるほどブラッシュした。
「ノラ猫ちゃんは、だいたいノミやシラミがいるのよ。あなたも一緒に遊んでると、どうしてもうつっちゃうから、これから毎日ブラッシュするわよ」

   こいつはたまらんと思った。
だいたいノミなんてたかったことはなかったが、どんなに嫌なものかは想像がついたから。
みどりが出掛けてから、しばらく俺とボールで遊んだ子猫は、
<お天気がいいから、出掛けてきまーす>
と、穴からはい出して行く。俺は、
<おい、気をつけろよ。変な野郎につかまるんじゃないぞ>
と、後ろから声をかけるくらいしかできることはなかった。

   それからも毎日、同じようなことが続いた。
子猫は、日々毛艶もよくなり、元気になって、コロコロよく遊んだ。
そして、毎朝、必ず出掛けて行く。
一体どこへ行くのか……。
一度、どうして危険な表へ出て行くのか、餌ならもらえるんだから、ここにいたほうが楽じゃないかとたずねてみたことがある。
すると、チビは、
<でも、おじちゃん、ここはたいくつだよ。おもては広いし、いろんなボウケンがあって、胸がドキドキするんだ>
と、答えたじゃないか。

   俺は考え込んでしまった。
確かにここにいれば、危険はないし、食事も寝床も保証されている。
しかし、単調極まりない毎日ではある。
俺も若猫だったころ、日本に来て、はじめてムサシにあったとき、こんな毎日で退屈ではないのかとたずねたことがあった。
すると、ムサシは、心底びっくりしたように、
<だ、だって、おいしいものがいただけて、優しいママがいて、一日中遊んでいても寝ていても、いい子ねって言ってもらえるんですよ。最高じゃないかと僕は思います>
と答え、俺は、こいつ、根っからの怠け者なんだなと、軽蔑したではないか。

   それが、気が付けば、今、俺もムサシとまったく同じ類いの怠惰猫に成り下がっている。
本当に、こんなままで一生を終わっていいものなのだろうかと、真剣に考えるようになった。



   子猫は、実に活動的だった。
眠っているときと食べているとき以外、一時もじっとしていない。
まさにエネルギーの塊、生命力の化身みたいだった。

   恥ずかしい話だが、俺は子猫から外の世界の話を聞くのが、楽しみでならなかった。
商店街を歩いていると、奥から食べ物をもってきてくれる人もいるかわりに、いきなり水をかけて追い払う人もいるとか、公園は、木や花があって楽しいけれど、小さい子供がいて追い回すし、若いママさんたちは、ノラ猫はみんなのオモチャだと思っているのか、子供が猫を棒で追ったって、止めやしない。
だから公園へは絶対近寄らないことにしているとか……。

   そんな話を聞いていると、俺も、子猫だったころ、あのイサカのインテリアショップの裏庭から、こっそり近くの公園へ行って、木に登ったり、土管をくぐったり楽しかったことを思い出すのだった。

   ところがある朝、子猫が、イッテキマースと、例の穴から首を出したその瞬間、巨大なカラスが待ち構えていたように急降下、ムンズと子猫をつかんだ。
<フンギャー、おじちゃん、助けて、助けて!痛いよ、イタタタ!>

   カラスは子猫の首筋をつかんで離さない。
俺は思わず子猫の足をつかんだ。
俺とカラスは、綱引きのように子猫を引っ張り合う。
カラスはものすごい力で、いつの間にか、俺の顔も前足も、穴から外に出ていた。
だいぶ長い間引っ張り合っていたと思う。
子猫はグッタリして、もう悲鳴もあげない。
とうとう勝ち目がないと思ったのか、カラスはいきなり子猫を離すと、空高く舞い上がった。

   俺はバランスを崩し、つんのめると同時につかんでいた手を離してしまった。
かわいそうな子猫はまっさかさま、アパートの塀の上に墜落した。俺は、そのときになって、穴が小さすぎ、どうにも頭と手を抜くことができないのに気づいた。
もっと悪いことに、ガラスの穴は、縁の処理がしていなかったので、切り口が鋭く、もがけばもがくほど刃物のような切り口が手と首に食い込み、毛皮を着ていてさえも血が流れ始めた。
これはやばいと思ったが、もうどうにもならない。

   いけないと知りつつ、ギャーギャー鳴いて助けを求めた。
30分過ぎ、1時間たった。
近所の人は、なんとなく猫が騒がしいとは思いながらも、まさか、アパートのガラスに挟まっているとは思わない。
貧血してきたのだろうか、目がかすみ、気分が悪くなってきた。
――早く誰か気づいてくれ。
俺は死んじゃう――気づかれればまずいのは百も承知だが、やはり本能的に命は一番大事だった。














   2時間近くたったろうか、下から見上げていた子供が、
「アッ、あんなところに猫ちゃんが挟まってる」
と、俺を指さして叫んだ。
人だかりができた。
その中の誰かが消防車を呼んだらしい。
間もなく、サイレンの音もけたたましく、ハシゴ車がやってきた。

「第1班、到着。ただ今救助を開始します」
手に持ったハンディートーキに向かって報告しながら、防火服に身を包んだ消防士さんが、ハシゴとともにせりあがってくる。
「いや、こりゃひどい。血だらけだ。なんでこんなことになったんだろう?」

   ぶつぶつ言いながら、消防士さんはカッターを取り出し、ガラスを切りはじめる。
――おいおい、俺の首を落とさないでくれよな――
そんなことを思ったが、なんだか俺はもう身体中の力が抜けて、はっきりものを考えることさえできなかった。

「猫はだいぶ衰弱している模様」
俺を救出してくれた消防士さんが、またトーキーに向かってしゃべる。
下にできた人垣は、ますます人数を増していた。
そのうち、誰が知らせたのか、近くに住む大家さんまでやってきた。
俺がそのまま獣医に運ばれて行くとき、大家さんが憤慨しながら、アパートの隣にある一軒家の奥さんに言っている言葉が聞こえた。

「あのうち、ずいぶん前から猫を飼っていたんでしょうかね? 何か音が聞こえましたか?」
「いいえ、ちっとも気づきませんでした。まあ、この辺りはノラ猫も多いんで、どれがどれの鳴き声やら分からなかったってこともあるんですが……」
「ここの住人はみんな勤め人だから……今夜でも、ちゃんと聞いてみなくちゃ。とりあえずは、もどったら連絡してくれるよう、張り紙をしておこうかね」
――俺は、もうろうとした意識の中で、ああ、またみどりに迷惑をかけてしまうことになりそうだ――
と、思った。



   勤めから帰ったみどりは、大家の張り紙を見て、仰天したという。
早速大家の家へ行き、事の次第を聞かされ、散々油を絞られ、もし、猫をどこかへやらないなら、引っ越してもらわなければならないと宣告されたという。
病院に俺を迎えに来たみどりは、意気消沈。実家のおばちゃんに付き添われて、もう一度大家の家にわびに行った。

   いくらわびても、規則は規則、絶対曲げられないと言われたみどりは、次の日から俺を実家に預け、移る家を探し始めた。
おじさんは、包帯で首をグルグル巻きにされた俺を眺め、苦虫をかみつぶしたような顔で、
「またか。かわいそうだけど、よくよく騒ぎを起こすようにできてる」
と、ため息交じりに言った。

   おばちゃんが、
「この子は鳴き声も出さず、そりゃ静かに暮らしてたのよ。だから、アパートのお隣さんだって、みどりの家に猫がいるなんて、知らなかったくらいなんだから。ただ、ノラの子猫が迷い込んじゃって、その子がミャーミャー鳴いたらしいの。シータスがガラスの穴に挟まっちゃったのだって、きっと、何かその子猫がらみのことがあったのよ」
と、必死で援護射撃をしてくれたが、後の祭りだった。

   そばで聞いていたおばあちゃんが見かねて、
「それじゃ、次の家が見つかるまで、私の家で預かろうかね」
と、言ってくれた。
――性悪猫じゃない。しかし、荷が重過ぎる――
それがみどり以外、みんなの本音だった。

   いまでは、自分も人間の一員のつもりでいた俺だったが、あの子猫が紛れ込んで以来、眠っていた猫の性が目覚めたらしい。
生まれて初めて、自分の同類の幼子を本気で気遣い、助けたいと思った。
ところが結果はこの通り。
みどりのパートナーとして、人間の世界でうまく生きて行く自信も、猫としての自信も、根底からグラついてしまった。
その上、子猫の助けを呼ぶ声が耳からはなれず、俺の心をかき乱す。
首と前足の傷はどんどんよくなっていったけれど、心の傷はまだ、赤剥けのままだった。



   家探しは難航した。
みどりは勤めのあと毎日、足を棒にして探し回る。
しまいには家の近くに探すのをあきらめ、かなり遠くまで範囲を広げた。
折悪しく会社も大忙しの真っ最中。
残業も多く、みどりの疲労はいやがうえにも増していく。

   そんな土曜日、コーネル大学のクラス会からもどったみどりは、いつになく華やいでいた。
それもそのはず、おばあちゃんの家で、おばちゃんも一緒にお茶を飲みながら、みどりは、クラス会でダニーに再会したと話した。
「まあ、住所も分からなかったダニーがどうしてクラス会に?」

   いったん別れてはみたもののみどりが忘れられなかったダニーは、日本に支社がある企業に入社し、東京勤務を希望してやってきた。
ところが時すでに遅し、みどりは結婚してしまっていた。
しかし1年もしないうちに別れたというわけだ。
 ――やれやれ、消えたはずのダニーの再登場か。あいつ、まるで不死身のターミネーターみたいだな――
とっさにそう思った俺だったが、そこでハッと気が付いた。

――ダニーだって、いわば俺が追い払ったようなものだったじゃないか。その反動であんなボンクラと結婚して、かわいそうなみどりは大事な人生に大きな傷痕を負った。やっと軌道修正できるかもしれないってのに、また俺が口を出して追っ払ったんじゃ、上向きかけた運も台無しになる。ここは俺が我慢するしかない。あのジプシーが言ったようなことには絶対ならないぞ――。



   みどりのためならダニーとさえ仲良くしようとけなげな決心をした俺だったが、次の日曜日、実際にダニーが玄関に姿を現してみると、恐怖が現実になって、昔の習性がよみがえったのか、われを忘れて逃げ出してしまった。
それも、俺を抱いていたみどりを乱暴に押しのけて。
気の毒なみどり。
俺の爪が当たった胸と腕から血がにじみ出る。

「シーチャン,何もそんなに僕を嫌わなくても……」
そんなダニーの声も耳にはいらない。
一目散にベッドの下に逃げ込んだ。

   不思議なことにみどりの引っかき傷はなかなか治らず、しまいにはジクジク膿みはじめ、熱まで出る始末。
大げさなことの嫌いなみどりも医者に行き、なんとか傷は納まった。
ところがそれでは終わらなかった。
熱はじわじわと上がり、全身の倦怠感と頭痛で、とうとうみどりは寝込んでしまった。
感心に、ダニーはまめに見舞いに来た。
どこかのダレカサンみたいに花束だ、点滴だなんて小細工はできなかったが、誠心誠意通い続け、みどりが眠っていれば、そっと顔だけ見て帰っていく。

   とうとう大きな病院で検査を受けることになった。
結果は――聞いた俺はびっくり仰天。われとわが身を呪った――猫などペットが媒介するヴィールスによって感染する、Q熱とかいう伝染病だったのだ。
大して強い菌ではないらしいが、身体が疲れていたり弱っていると、まれに発病するという。
――だったら、原因は俺しかないじゃないか――
おそらく例の子猫からもらって、俺自身は発病せずみどりにうつしちまったに違いない。

   だめだ、だめだ。
俺はいくら気をつけたってみどりを不幸にしてしまう。
そういう運命を背負って生まれたに違いないんだ。
もう、大好物の削り節さえ食べたくないほど落ち込んだ。



   一方みどりは、病名が判明し、症状の割にはたいした病気ではないと分かると、びっくりするほど明るくなった。
最初のうちは俺をばい菌そのものみたいに避けていた家族も、みどりと同じ薬を飲み、検査でシロと結果が出ると、また以前のように扱ってくれるようになった。
それでも何かが変わった――と、俺は思う。
いや、変わったのは俺のほうだったのかもしれない。

   ものごと好転し始めるとすべてがうまく転がるようになるらしい。
みどりの家も何とか見つかり、今度は俺も一緒に大手を振って住めることになった。
引越しのときは、もちろんダニーが朝から手伝いに来て、運送屋さんと一緒に重いものも全部運んでくれた。
おばちゃんも片付けと掃除を手伝い、狭い家は夕方にはなんとか住める状態になった。
その晩は店屋物の寿司を取って、俺もやっと籠から出してもらってみんなで食卓を囲む。
「イヤー、やっぱりお寿司はうまいね。最高!」

ダニーは相変わらずよく食う。
俺も好物の刺身をもらって大満足。
おばちゃんは俺の削り節も忘れていなかった。

「シータ君、これからもちょくちょくお邪魔すると思うけど、仲良くしてくれよな」
ダニーがピョコンと頭を下げた。
こんな風景、他人から見ればステキな家族みたいなんだろうな……。

   しかしその晩、久々に落ち着いてみどりの腕に抱かれながらベッドに横になった俺の耳には、夜通しあの子猫の声が響いていた。
「おじちゃん、おじちゃん、置いて行っちゃいやだよ。僕、また一人ポッチになっちゃったよ。出ておいでよ。お外は広くてボウケンがいっぱいあるよ!」

   俺はガバと跳ね起きて闇を見つめた。
多分あの子猫に、両親をなくしたときの俺自身の姿を重ねているのだろう。
小さな身体にいっぱいの闘志をみなぎらせ、まだ見ぬ世界に向かっていつも前進して行く子猫。
まだ、物事の判断もよくつかない年頃なのに、野生の本能だけを頼りに、広い世界にたった一人で戦いを挑んでいく。
いつしか俺の瞼が熱くなっていった。



   その年はとても雪の多い冬だった。
引越しの日をはじめ、1月も2月もよく降った。
みどりはすっかり健康を取り戻し、不幸な結婚以来こけていた頬にも、ふっくらと赤みがもどった。

   一方、俺のほうはというと、あんなに好きだった削り節にもつき物が落ちたように興味を失い、体重がめっきり減った。
みんなは「シータ君もお年だから」なんて言ったけれど、俺より年上のムサシは相変わらずマルマル、餌をたらふく食べては昼寝して暮らしている。

   それなのに、それなのに、ある日突然、あのムサシがポックリ死んでしまった。
獣医さんの話では、太りすぎで心臓に負担がかかっていたらしい。
おばちゃんは泣いた。
おばあちゃんも。
あの謹厳なおじさんでさえ、みんなの見ていないときに、こっそり目頭をぬぐっていた。
同類の死を目の当たりにするのが初めてだった俺は、ショックというか、不思議というか、頭が混乱して考えることさえ出来なかった。

   今までだっておふくろの死を考えたことはたびたびある。
おそらく死んだであろう小猫のことも。
しかし、それと、目の前で今まで一緒に遊んでいた友達が動かなくなるのを経験するのとは大違いだった。

   眠るとき、いつも口をモゴモゴひげをピクピク、前足でモミモミしていたあいつが、今度ばかりは、まるで石にでもなってしまったように何一つ動かさない。
自慢の派手な縞模様さえ、見る間に艶が無くなっていく。
死ぬってなんなんだろう?
俺は考えずにはいられなかった。

   それに、家から一歩も――本当にただの一度もだ――表に出たこともなく、木登りなんて考えただけで眩暈を起こしちまうってあいつの生き様は、いったいなんだったのか……。
でも、あいつはいつだって幸せそのものだった。
<優しいママがいて、おいしい御飯がいただけて、寝ていても遊んでいても、いい子ねって言ってもらえるんですから、最高だと思いますよ。僕は……>

今でもあいつが自信をもって言った言葉がよみがえる。
それじゃ、幸せって何なんだろう?
安全で食べ物が保証されていること?
暖かい寝場所があること?
自分をかわいがってくれる人がいること?
どれも幸せだと思う。

   でも、でも、幸せって、自分の愛する人を幸せにすることでもあるんじゃないだろうか?
自分だけが幸せで、ほかのみんなが不幸だったら、それでも幸せって感じられるだろうか?
俺はだめだ。
だから、みんなにどんなに優しくしてもらっても、みどりと一緒に暮らせても、俺が他の人を不幸にしている限り幸せにはなれない。
だったら、方法はひとつしかないじゃないか……。

   その晩、夢に出てきたムサシは、シマシマ模様もみごとに、輝くほど立派な毛皮に包まれ、胸を張って森の中を歩いていた。
物陰に俺がいるのに気づくと、
<アア、シータ君、こんにちは。僕は初めて自由になりました。自由っていいですね>
と、微笑んだ。

   自由、自由……それじゃ自由って何だろう?
俺の頭の中は、こんがらがった毛糸みたいに、押しても引いても解けなくなってしまった。



   3月、すっかり調子のもどったみどりは、ダニーと二人、最後のスキーを楽しみに山の別荘に出掛けた。
もちろん俺も一緒だ。

   標高の高い山では、まだ風は俺の毛皮さえ突き通すようだったが、木の節目に、朽ち落ち葉の下に、新しい生命は芽吹き始めている。
俺は、爪の先でひょっこり芽を出したチューリップの球根を掘り出し、ほろ苦い味を楽しんだ。
あと一息。春はもうそこまで迫っていた。

   夕方からは雪が舞い始めた。
一日中スキーに興じた二人は、戻ってくるとベランダにたたずんだまま、暮れなずむ空から舞い降りる鳥の羽のような雪に見とれている。
濃さを増してくる夕闇の中、家から漏れる明かりを受けた雪は、あのイサカのダイヤモンドダストみたいに輝いて見えた。

   俺は二人の手がしっかり握られているのに気づいた。
すべてが分かったような気がした。
――そうなんだ。そういうことなんだ。この二人なら、お互いを幸せに出来る。俺がそこに割り込もうとするからこんがらがっちゃうんだ――
拍子抜けしたような、肩透かしを食ったような、それでいて、どこかホッとするような複雑な気持ちだった。

   俺は二人の横をすり抜け、そっと暗い庭に一歩踏み出す。
二人とも俺には気づかなかった。
みどりはこんどこそ、きっと幸せになれるだろう。
――俺さえいなければ――。

   なにも英雄を気取っているわけじゃない。
愛ゆえの自己犠牲なんて悲愴なことを言うつもりもない。
ただ、ここらが潮時と思っただけ。
俺は誇り高い猫なんだ。
あんな、何もわからないチビが広い世界に飛び出して行けるんだったら、この俺に出来ないわけがない。
ちょっと年はくっちまったが、いまからだってボヘミアンの生活をエンジョイできないことはあるまい。

   裏の森へ向かって歩いていく俺の足跡を、降りしきる雪がたちどころに消し去っていく。
さようなら、みどり。
いいパートナーだったよな、俺たち。
おばちゃん、おばあちゃん、おじさん、みんなによろしく。
ダニー、みどりを頼んだぜ。

一抹の寂しさとともに、心のどこかには解き放たれた気軽さが躍っていた。

(完)


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