娘の名前は"みどり"といった。
「あのね、私の名前はみどり。日本語でグリーンのことなのよ。あなたは昨夜、一生懸命考えたんだけど、8月生まれだって獣医さんがおっしゃってたから、8月の星座、シータス(鯨座)にしようと思うの。どう? 気に入った?」

   ――フム、シータスか。ま、いいだろう。あんまり強そうじゃないが。
そのときは、名前を付けるってこと自体が珍しかった。
だって今までは、おふくろ、おやじ以外はミケ、チャトラ、シロクロって、兄弟は色で区別しあってたし、人間はただエイプリル・イン・コーネルのお姉ちゃんとか、ダニヨーズのシェフって具合に呼んでたから。

   シータス、シータス、口の中でつぶやいているうちに、だんだん気に入ってきた。
それに星座から取ったなんて、ちょっといけてる。
けど、"みどり"って名前はへんてこだと思った。
だって、英語じゃ真っ青になるとき、顔がグリーンになったって言うじゃないか。

   ともかく、みどりは、メチャクチャにかわいがってくれた。
毎朝、お腹が空いて我慢しようと思うんだがそれがなかなかできなくて、ちょっと小さい声で呼んでみようかなって、耳元に口をよせると、
「ウーン、いやよシータスったら。くすぐったい」
と、言いながらも、すんなり起きて餌をくれる。

そのあと、もう退屈でベッドに戻る気がしなくて、俺専用のトイレをガリガリ引っかいたり、みどりが大事にしている、タンスの上の香水ビンのコレクションを、1個ずつ絨毯の上に放り投げたりして遊んでいると、
「本当にしょうがない子。じゃ、お遊びしましょう」 って、ボールを投げたりレスリングしたりして遊んでくれた。

もっともそんなとき、ルームメイトのベティーは、隣の寝室から仕切りの壁をガンガンたたいて、
「ちょっと、静かにして。私、今日は10時まで授業がないんだから」
 とかなんとかどなる。するとみどりが、
「シーッ、ほら怒られた。もう少し寝ようッ」
 と、ベッドにもぐり込む。お腹はいっぱいだし、ひと遊びもすんだ俺は、またいい気持ちでグーグー寝ることができた。



   みどりは授業に行っちゃうと、お昼に帰ってくる日もあったけど、夜、真っ暗になるまで戻って来ないときもある。
もうこのまま帰って来ないんじゃないか、俺はまた腹を空かせて浮浪者みたいな生活に戻るんだろうかと、それは不安になったものだ。
   昼に戻れないときは必ず、ベティーかボーイフレンドのダニーが来て餌をくれた。
だけど、あの2人はドライフードをそのまま皿にぶちまけていくので、子猫の俺には固くて固くて、噛むのが大変だった。

   いちばん閉口したのは、「かわいい、かわいい」って隣近所の部屋に住む、みどりの学校友達が俺を見に来たことだ。
みどりが「あんまり触るな!」って言ってくれても、なにしろ俺はとびきりかわいかったから、みんなもう夢中で俺を抱きたがる。

   撫でたり頬擦りしたり……なかには、自分が風邪ひきだってことも忘れて俺にキスするやつまでいたからたまらない。
母乳の途中で親から引き離され、抵抗力の弱かった俺は、あらゆるばい菌にいちいち感染した。

   ある朝、目が覚めたら辺りがよく見えない。
吐き気もするしフラフラする。
一生懸命立ち上がろうとして転がってしまったら、みどりが金切り声をあげた。
「まあシータス、どうしたのその頭! 大変。すぐ獣医さんに行かなくちゃ!」

   なるほど、鏡を覗いて驚いた。俺の頭がブヨブヨに膨らんじまってるじゃないか。
それを見たとたん、もうだめだってブッ倒れちまった。
みどりのあわてかたは大変なものだった。

   俺を毛布にくるんで車に乗せ、朝の授業なんてほったらかして、ピラミッド・ショッピングモールの獣医のところへ飛んで行った。
獣医はちょうど往診に出るところだった。間一髪! みどりが俺を見せると、けげんな顔をして、
「昨日、どこかに頭をぶつけましたか?」
と、たずねる。
俺だってそんな覚えはないんだから、みどりが思い当たるはずがない。
「いいえ、どこにもぶつけていないと思いますし、落ちたようなこともありませんでした。 ただ、風邪の子が来て一緒に遊んでいましたから、何かそういうものがうつったとか……」

   多分、子供を小児科に連れて行く母親ってのは、こんなふうなんだろう。
みどりは心配そうにあれこれたずね、ドクターコートの兄ちゃんは、何がなんだか分からないまま、とにかく注射器で頭にたまった水を抜き、内容物を検査に出すから、とかなんとか歯切れの悪い答えをして苦い薬を処方した。




   アパートに戻った俺は、早速寝かされ、ふだんは倹約だといって最小に絞ってある暖房を全開にしたみどりの寝室で、毛布までかけさせられた。
だけどゾクゾク寒気がしたし、気分も悪かったので、そのままぐっすり寝込んでしまった。
みどりは一日中つききりで、俺の頭を氷嚢で冷やし、スプーンでスープを口に流し込んでくれた。

   その晩、みどりがベティーに話しているのが聞こえた。
「ねえ、今週末、一緒にシラキュースまでショッピングに行く約束だったけど、私、行けない」
「シータスが病気で、一人にしておけないものね」
「うん、それもあるけど、今日ね、獣医さんでシータスの治療費に、250ドルもかかっちゃったの。検査が高いんですって。だから、もう、ショッピングするお小遣い残ってないのよ」

   俺は、あまりの高さに目眩がした。
何を節約してもショッピング用の予算だけは確保しておくみどりが、俺のためにそれまで犠牲にしてくれたと思うと、ありがたいと同時に申し訳なくて、そんなに愛してくれるこの人のためなら、なんでもやってやろうと心に誓ったのだった。

   それからも毎日、苦い薬を飲まされ、週に一度、獣医に通って抗生物質やらヴィタミン剤やら、ブツブツ注射ばかりされた。
   おまけに、みどりが東京のママって人に頼んで作ってもらったという、
(その人も変わっていて、見たこともない猫のために一晩寝ずに大急ぎで編んだんだそうだ)
へんてこりんな毛糸の帽子をかぶせられ
(頭がブヨブヨに腫れていたんじゃ、獣医に連れて行くにも人にジロジロ見られてかわいそうだからって、帽子を頼んだんだって)、
対のチョッキまで着せられて過ごした。

   結局、4週間のうちに少しずつ腫はひき元気も出て、原因は分からないまま、何かの菌の感染症だったのだろうということで一件落着した。

   もう一つ、俺の何一つ不満のない生活に影を落としていたのは、みどりのボーイフレンド、ダニーの存在だった。
奴は大変な秀才で、量子物理学とかなんとかいう訳の分からないものを専攻していたらしいが、ともかく"がさつ"なんだ。

   話し声は大きい、足音もうるさい、背がずば抜けて高いうえ横幅もある。
俺が無防備な姿勢で餌をかきこんでいるとき、ドタドタとキッチンに入ってきて、何度あのでかい足で俺のしっぽを踏んだだろう。
そのたびにみどりにどなられて、しおしお頭をかいてはいたが。

   しかも、ガキっぽいいたずらを、ウイットのあるジョークか何かのように考え違いしているのが勘弁ならなかった。
あるとき、みどりに頼まれて俺に餌をくれに来たとき、
「おいシータス、いいものあげよう」って、おもわせぶりに身体の後ろに箱を隠してる。
当時は俺も子供だったから、夢中で
「ちょうだい、ちょうだい」って、擦り寄った。
そしたら、隠していたほうの手を俺の鼻先に突き付け、もう一方の手で箱の蓋をパッと開いた。

なんと、その小さな箱の中にいたのはザリガニだった。
ザリガニだって狭い箱に押し込められていたんだから、もういいかげん頭に来ていたんだろう。
自由の身になったとたん、目の前にあったものに挑みかかった。
哀れ、俺は鼻の頭を挟まれ、痛いの痛くないの……。

フンギャッと一声、ソファの下に逃げ込んだ。
それなのに、あいつときたら、反省の色もなく、
「シータス、頑張れ。お前よりよっぽど小さいんだぜ、相手は。ほら、やりかえせよ」
 と、ソファの下を覗き込んでけしかける。
俺はあきらめたダニーが、ザリガニを箱に戻して部屋を出て行くまでソファの下から出て行かなかった。



   また別のとき、みどりがニューヨークまで行くっていうんで、あいつの部屋に2日間預けられたことがあった。
俺は気が進まなかったんだけど、みどりの予定を台無しにしたくなかったから、おとなしく預けられてやった。

   夕方になると、あいつのルームメイトが戻ってきて、みんなでソーセージを焼き始めた。
どうもそれがその晩の夕食になるらしい。
俺は興味ないような顔をして、あいつのベッドに寝そべっていたが、ともかくいい匂いなのだ。
つい我慢できなくなって、ノソノソとキッチンの方へ歩いて行ってしまった。

<ちょっと見るだけ……>
   本当にそんな気持ちだった。
間抜けな男の子どもは、慣れない手つきで、一人はサラダの葉っぱをメッタ切りにしている真っ最中。
もう一人は、ビールを抱えて冷蔵庫から運ぶのにおおわらわ。
そしてダニーは、シェフ気取りでソーセージをこれでもかってくらい焼いては、テーブルの上の皿に積み上げていく。

   俺は、こんなにたくさんあるんなら、1本くらい失敬してもバレないだろうと高をくくって、そっとテーブルに忍び寄った。
迷子になって人家に忍び込んだときはまだほんのチビだったから、背丈も跳躍力もまるでなかった。

しかし今は、身体もいっぱしのサイズになっていたから、自信はあった。
エイヤッと一跳び、音もなくテーブルに着地したその瞬間、ビールを運んでいたトニーが、
「アッ、シータスが! こら、シッシッ」
とすっとんきょうな声をあげやがった。
いっせいにみんなの目が俺をにらみつけ、泡を食った俺は、思わず行きがけの駄賃とばかり、一番手近にあった、黄色のふんわりしたものを口いっぱいほお張って飛び降りた。

アッ、アッ、アッ! 俺の口の中が燃え始める。
ボウボウ燃えるマッチを、50本もぶち込んだみたいに。

to be continued

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