俺はほとんど気を失いそうになりながら、必死で口の中のものを吐き出した。
それでもまだ燃えている。
「ああ、シータス、マスタードを食っちゃうなんて……! 早く、早く、水を飲ませなくちゃ!」
 あわてふためいたダニーがソファの下にもぐり込んだ俺を無理やり引きずり出して、風呂場へ連れて行き、蛇口をいっぱいに開いた。

辺りに飛び散る冷たい水を頭から被った俺は、もうずぶ濡れの濡れネズミ。
口の中は燃えながら、身体は凍りつきそう。
いつもは蛇口から流れる水を飲むのが好きな俺だったから、ダニーは気をきかせたつもりだったのだろう。
びしょ濡れになった俺を見てまずいと思ったのか、今度はそこらにひっかけてあったタオルで、力まかせにゴシゴシ俺の身体をこする。

仲間の一人が、
「アアッ、ダニー、そ、それは僕のタオル……」
 と、悲鳴をあげるのも耳に入ればこそ。
ダニーは馬鹿力を振り絞って俺をこすり続ける。
やっと乾いてきたら、今度はごていねいにドライヤーだ。

 ところが、あいつ、よそ見をしながら当てていたので、内部で回転している羽根に俺の自慢の毛皮がからまってしまった。
俺はまたフンギャーと叫んだ。
幸いコードが抜けたから大事には至らなかったが、それ以来、背中のその部分はいくらブラシをかけても毛が割れてしまうようになった。
まったく踏んだり蹴ったり。

「頼むよ、シータス、飲んでおくれ。機嫌を直してくれないと、みどりに怒られちゃうじゃないか」
 さすがに反省したのか、今度はボウルにミルクなんか入れて、なんとか機嫌をとろうとなだめすかす。
<……飲んでなんてやるものか。こんな目にあわされたってのに、お前の差し出すものが安心して飲めると思ってんのか、バカ!>
 俺は死んでも口を開かない決心で、まだ口に残る辛さ、ヒリヒリ感に目から涙を溢れさせていた。



 その晩、ほかの2人がテレビを見ている間、レポートか何かを部屋で書いていたダニーの背後に忍び寄った。
さっきの意趣返しに、スタンドをつかなくして困らせてやろうと考えたのだ。

一、二の三! 
電気のコードにパクリと食らいつき、ガヂガヂとばかり噛みしだいた。
アッ、そのとたん、身体中がブルブルッと震えたと思うと、俺は見えない手に放り投げられたように、ドタン、壁に打ち付けられた。

びっくりして振り向いたダニーが悲愴な声をあげる。
「シ、シータス! なんてこった!」
 その声に、ほかの連中も駆けつけた。
俺は白目を剥いてブルブル震え続けている。
また、車に積み込まれ、くだんの獣医に駆けつけた。

「シータス、また君か。本当によく具合が悪くなるね」
 たまたまいつもより遅くまで残っていた獣医は、かつぎ込まれた俺を一目見るなりそう言った。
――なにも、来たくて来てるんじゃないさ。 
そんな悪態の一つもついてやりたかったが、とてもそんな元気はなかった。

「ハハーン、電気のコードを噛んだんだね。ウサギやモルモットみたいな"げっし動物"にはよくある事故なんだけど、猫ちゃんでは君が初めてだ」
 命に別条ないと分からなったダニー、トニー、トーマスの3人は、呆れて目をグルリと回した。

「ほら、口の周囲を見てご覧。両端に軽い火傷をしているだろ。これが典型的な症状だ。電気が通り抜けるときできた傷さ。ちょっと臭いけど、この薬を塗っておけばすぐ直る。大丈夫、気をつけなくても、もう二度とコードは噛まなくなるさ」
獣医は笑ってそう言った。

 それ以来、俺とダニーの関係は、決定的にギクシャクしてしまった。
あいつの足音が聞こえるたびに、俺はみどりのベッドの下にもぐり込む。
そして奴が帰るまで何度呼ばれようと、大好物の食べ物をみせられようと、絶対出て行かないのだ。

「シータス、逃げなくたっていいだろ。別に僕がいじめたんじゃないのに……」
 ダニーがいつも笑いながらそう言うのが余計気に食わなかった。
<だめさ。何を言っても……。ともかく俺にとっては、ダニー、イコール、災害って図式ができあがってしまったんだから>

 みどりは、ダニーの説明では納得しかねて、きっとほかにも何かあったにちがいないと疑いながら、何もなかったと言い張るダニーに、もうたずねることもやめてしまった。
 そうそう、それからもう一つ、俺が男嫌いになった大きな出来事を話さなければならない。
そりゃ、野性的な男である俺が女の子の方が好きなのは当然だけれど、ともかくその事件以来、大半の男には用心することにしたんだ。



 それはイサカの町に初雪の降った日のことだった。
朝、チラリホラリと降り始めたボタン雪が午後になって粉雪に変わり、容赦ない激しさとなって、あれよあれよと言う間に、辺りは一面真っ白になった。

俺にしても雪を見るのは初めて。
みどりのいない午前中はずっと、窓辺に座って外の景色を眺めて過ごした。
雪はきれいなだけでなく、積もると辺りが静かになる。
いつもは締め切った窓を通してさえ、かしましくベッドの中まで飛び込んでくる人声が、まるで声を殺してひそひそ話しているくらいにしか聞こえなくなるのだ。

 それに、向かいの小汚いアパートのはげ落ちた壁や、趣味の悪いスレート屋根が真っ白になると、見違えるように美しい建物になった。
丸坊主の立ち木は、砂糖で固めたロリポップに変身して。
積もった雪に、人も車もふざけているみたいにツルツル滑って、学生たちは互いにぶつかり合いながら、子供みたいに手を取り合って歩いて行った。

 そのうち、道には人も車も、影も形もなくなって、完全な静寂と白一色が辺りを覆い尽くした。
みどりたちも午後早々には、休講になったと言って部屋に戻り、夕食も学食へは行かず、部屋でありもので済ませた。

 雪は丸2日降り続け、次の日は抜けるような青空になった。
朝日で銀色にキラキラ輝く綿帽子の下から、赤い実を覗かせたイチイの植え込みが目を見張る美しさだ。
俺は早くから跳び起き、外に出てみたくて、「ニヤーニャー」うるさくみどりを起こした。

 いつもなら、そんなに早くたたき起こされると文句たらたらのベティーまでがすんなり起きてきて、窓から外を一目見るなり子供みたいに興奮して、
「こんなに積もって、もったいないね。 何かしなくちゃ」
 と、言い合う。そこへ、みんなで何かして遊ぼうって誘いの電話。
どうやら人間ってみんな雪が好きらしい。

「シータス、外は雪が積もってとってもきれい。これからみんなでソリ遊びするんだけど、シータスも連れてってあげよう」
と、言った。
もちろん俺は大喜び。
例の妙なセーターと帽子を着せられて、犬みたいにハーネスまで付けられて出かけた。
なるほど、外の空気は昨日までとはまったく違う匂いがした。
キーンと音がしそうに冷たいのに湿気が感じられない。
空気自体が霜柱のように、つかんだらパラパラと手の中で砕けてしまうのかと思えた。

 ときどき木から落ちて舞う雪を、パクッと食べてみる。
甘くも辛くもなかったが、ちょっといい歯ざわりだった。
俺はワニみたいに大きく口を開けて、パクッ、パクッ、噛む前に溶けてしまう雪をそれでも一心に噛んだ。



 みどりのアパートのある通りの1本先に、バッファローというめっぽう急な坂がある。
両側は普通の民家なのだが、そこの住人は、一歩道に踏み出したとたん、どうやって立っていられるのだろう思いたくなるほど急坂なのだ。

みどりの車でショッピングモールや獣医に行くときこの坂を通る。
そのたびに、
<慎重に運転してくれよ……。真っ逆さまに転がったりしてくれるなよ>
と、内心ビクビクものだった。
どうも今日はそこでソリ遊びとやらをやるらしい。

 男の子の一人が、段ボールの箱を持ってやって来ると、その中に入って、バッファローのてっぺんからすごい勢いで滑り降りた。
下の通りを飛び越え、その向こうの上り坂にかかったところで箱から飛び出し、テレマーク姿勢で着地した。

 みんな、やんやの大喝采。
つぎつぎ、 何人もの怖いもの知らずたちがすっ飛んで行く。
 途中、方向が狂って、両側の家のポーチに突っ込むもの、危うく電柱に激突しそうになる者、結構危険がいっぱいのゲームなのだ。
見ているうちに、俺の男の血が騒いできた。
やがて女の子も、我も我もと滑り始める。
そのうち、どこから持ってきたのか、ベッドのマットレスをかついだ男の子がやって来て、乗れるだけ大勢で乗って滑ろうと言い出した。
「これならきっとそうスピードも出ないだろうから、シータスも乗せたら?」
何度か顔を見かけたことのある金髪の男の子が言った。みどりは迷っている。
「大丈夫、大丈夫。みどりが抱っこして乗ればいいんだよ。それとも、シータスって、怖がりなの?」

 そこまで言われちゃ、やらないわけにはいかない。
常識的で慎重な俺は、内心、乗ってみたい気持ち半分、怖さ半分ってところだったが、乗ろう乗ろうとみどりの足を引っかいた。
 一番前にダニーを含めた男の子が3人。
次の列の真ん中に俺を抱えたみどり、その両側をベティーとボーイフレンドのジムが固める。
そして後ろには女の子3人が恐る恐る乗っかった。

 出発!
 1人や2人で乗ったときはわけが違い、それぞれが怖いと身を固くするから、それにつられてあちこち重心が移動するのだろう。
マットレスはスラロームよろしく迷走する。
 右に横滑りし始めると、前列の男の子がマットの端を持ち上げて、左へと舵をとる。
それが行き過ぎて左に曲がり始めると、また逆の端を……道の半分まではなんとか行けたが、加速がつくにつれて操縦不能に陥り、乗っている人間がキャーキャー叫びながら腰を浮かせたり身を寄せ合ったりしたからたまらない。

 わけが分からないうちに、マットレスはひっくりかえり、みどりも俺も宙に投げ出された。
着地したと思ったとたん、俺の上にベティーが降ってきた。
ムギュッ! 片足としっぽをベティーの背中に踏まれ、一瞬息が止まった。
みどりはさかんに、
「シータス、ごめんね、大丈夫?」
と、繰り返し繰り返し、踏まれた箇所をさすってくれたが、痛みよりショックがひどくて、俺はオシッコをちびってしまった。
恥の上塗り! これもみんな、男の子が提案したからいけないんだ。
うまく操縦もできないくせに!

 と、いうわけで、以来、俺は男の子のすすめには一切耳を貸さないこと、男の子とは一緒に遊んでやらないことを誓ったのだ。
 ――冬は、家で眠っているのがいちばん! これは俺が初めての冬に学んだ教訓だった。
to be continued

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