最初は物珍しかった雪も、あまり毎日だといやになってくる。
学生たちも雪合戦やソリ遊びをやらなくなり、
授業が終わると、足早にそれぞれのアパートや寮に戻って行く。
車の運転もままならないため、買い出しだってせいぜい週に一度、交代に車を出して、
乗り合いでショッピングモールへ行く。
だから、席がないといって、俺は置いてきぼりが続いていた。

   まあ、日がな一日、ヒーターのきいた部屋の日の当たる窓辺で、
昼寝を決め込んでいるのだから、文句を言える立場ではないのだが……。
窓からの風景だって白一色で人通りも少ないから、単調でちっともおもしろくない。
だから、みどりが帰るのをひたすら待つ毎日だった。

   授業から戻ったみどりが俺を抱き上げ、頬擦りするとき、
頬も手もただ冷たいだけでなく、カチンカチンに凍ったような質感なのはいいものじゃない。
着ているコートだって、マフラーだって、繊維そのものが突っ張っている。
それが部屋に入って10分もすると、文字通り溶けるって感じに緩んで、
やっと本物のみどりに抱かれている気がする。


   ある日を境に、みどりはカレンダーの日を消していくようになった。
<……何があるんだろう。 何を待ち焦がれているんだろう?>

   日を追うごとに、みどりがウキウキしてくる。
よっぽどいいことがあるらしいので俺までワクワクしていた。
するとある日、みどりが言った。
「ねえシータス、今日、東京からママが来るのよ。うれしいね。
シータスもセーターを編んでくれたおばちゃんに会えるよ」

 なーんだ。そんなことだったのか……。
おばちゃんが来ると、俺はまた置いてきぼりにされるのかな? 
おばちゃん、猫は好きなのかな? なんとなく不安になる。

   なんでも、おばちゃんはニューヨークにオペラを観に行くのだそうで、
その前にちょっと娘の顔を見に寄るということらしい。
みどりはいつもより念入りに部屋の掃除をした。
片付け嫌いのベティーまでがせっせと働いている。
居間には花を生けて、ベッドのシーツも替えた。

明日はママがうんとごちそうを作ってくれるということで、
その晩は早めに簡単な夕食を済ませ、みどりは空港へ行く支度を始めた。
そこでまた雪がチラつき始めた。

「いやんなっちゃうな。また雪か……それじゃ、
スカートをやめて分厚いズボンをはいていくか」
「だって、イサカの空港なら目と鼻の距離じゃない。なにもそんな重装備しなくたって、
その買ったばかりのスカートで行けば」
「ううん、今日はイサカでなくシラキュースに着く便で来るのよ。
だから、あそこまで行く間に、寒くてトイレに行きたくなるといやだから」
「ああそうなの、じゃちょっとあるわね。
こんな日に限ってダニーがいないなんてついてないわね。
ダニーに運転してもらえばずっと楽なのに」
「まあね。でもダニーだって免許をとったの私より後だし、同じようなものよ」
「私も一緒に行ってあげようか?」
「ありがとう。でも万一なにかあったら、ママが電話してくるかもしれないから、
ベティーはここにいて。シータスに一緒に行ってもらうわ」


「シータスじゃ頼りないけど、 まあ、一人であそこまで行くよりいいか」
車がイサカを出て、隣村に続く国道に差しかかったころから、雪は吹雪の様相を呈してきた。
ワイパーで払っても払っても、容赦なく降り積もる雪で視界はほとんどゼロ。
雪は激しく降ると下から上へ舞い上がるから、ヘッドライトを乱反射して雨より始末が悪い。
みどりは半分ベソをかいていた。

   そこへ正面から来たトラックが大きくスリップして、みどりの車線に近づいた。
強烈なライトに目がくらむ。
一瞬、目をつぶったみどりは反射的にトラックを避けようと、ブレーキを踏みながらハンドルを切った。

   それがいけなかった。
トラックは態勢を立て直し、何事もなかったように走り去ったが、
みどりの車は急ハンドルとブレーキで完全にバランスを失い、スキットしてクルクル回転し始めた。
<ウワッどうしよう――>
思わず俺は頭を抱えた。
何度か回転した車は、今度は横滑りで路肩へ向かって行く。
ああ、目の前に電信柱が迫ってくる。
<ああ、もうだめだ――>
   俺の頭の中を今までの短い一生が、映画でも観るように横切る。
火傷したおふくろの顔が目の前に浮かんだとたん、俺は夢中でみどりに飛びついた。

「イヤッ、シータス、なにするの!」
俺がみどりの肘に体当たりしたもので、さらにハンドルを切る結果となり、
車は大きく右に曲がった。

   ズルズル……さっきからアクセルをまったく踏んでいなかったから、
速度は限りなく遅く、車は路肩から外れ一段下がった畑に突っ込んで止まった。
電信柱から、わずか5センチほど右にズレて、衝突は免れたのだった。

   みどりはしばらくの間、ハンドルに突っ伏したまま大きく肩で息をするばかり。
顔も上げなかった。
やがて正気に戻ると俺をギュッと抱き締め、 「怖かったね、シータス。
お前が押してくれなかったら、電信柱に衝突するところだった。
ありがとう、助けてくれたのね」
みどりは泣いていた。


   さあ、次の問題はどうやって車を引き上げるかだ。
降りてグルリと一周してみると、ともかく車は無事なことが分かった。
しかし女一人では、一段低い畑から引き上げることはできない。
みどりは涙で顔をクシャクシャにしながら、
「ママが待ってる……、ママが心配する」
と口の中で繰り返しつぶやきながら、車を押した。
ズボンの裾から雪がブーツに入り込み、つま先まで凍りつきそうに寒い。
文字通り猫の手も借りたい状況なのに、何一つ役に立てない猫の身が情けなかった。

   30分もそうしていただろうか。
対向車線をセダン1台やって来た。
様子を見てすぐ事情を察したのだろう。
車が止まると、中からおじさんが降りて来た。

「お嬢ちゃん、車が落っこっちゃったんだね」
「ええ、スリップした対向車を避けようとしたら、こっちがスリップしちゃって……」
「ま、ケガもなさそうだし、よかった。さあ、おじさんが上げてやろう」
と、言って自分の車に手を振ると、中から中学生くらいの男の子が二人と、
おばさんが降りて来た。
運転席にみどりを乗せ、みんなして後押ししてくれたので、10分もしないうちに車は道に戻った。
おじさんたちは、「気をつけて」と言い残して走り去った。

   再び空港に向かって走り始めたものの、みどりのいじけようといったら、いま思い出しても笑ってしまう。
対向車が来るたびに止まり、信号のない交差点で止まり、時速15マイルくらいのノロノロ運転で、
いつもは30分で着くところを2時間もかかって到着した。


   空港の待合室では、ママって人がパニックしていた。
みどりの姿が入り口を入って来るのを見たとたん、全速力で走って来て、ガバッと抱き合い、
みどりはそのまま子供みたいにアンアン泣いて……なんとも劇的な再会場面だった。
俺はすっかり忘れ去られ、どこへでも行ってくれって具合に放り出された。
俺だってそりゃ怖いめに遭い、こんなに心配してやったっていうのに。

「ああ、みどり、無事だったのね! ベティーに電話したら、もう2時間以上も前に出たって言うでしょ、
これは事故に違いないと思って……。ママを迎えに来る途中で事故なんかに遭っちゃったら、
ママもうどうしていいか……。来てもらうんじゃなかったって、そりゃ後悔したわ」

「家を出たときは、チラチラ降ってる程度だったの。それが国道に出たとたん、猛吹雪になっちゃって……」
事故のいきさつの説明が続く。
聞き終わったおばちゃんは、目に一杯涙をためて、俺たちが考えもしなかったことを言った。

「ああなんて運がよかったの。もし、最初のトラックがあなたの車に突っ込んでいたら……
それに、スリップしてクルクル回っているときに、他の車が通りかかってご覧なさい。
しかも、助けてくれた人たちが悪人だったら……。
あなた今頃は国道の端にレイプ死体になって転がっていたかもしれないのよ」

事故のショックでそこまで考えなかったみどりも俺も、いまさら数々の恐ろしい可能性を考えると、
改めて身震いしたのだった。

   いざ、車に向かって歩き始めてやっと、おばちゃんが荷物を持っていないことに気づいた。
「ママ、スーツケースは?」

「それがね、シカゴで乗り換えたとき、どこかの間抜けがママのを間違えて持って行っちゃったらしいの。
人が全員いなくなって、1つだけママのとそっくりのスーツケースがターンテーブルに残っていたんだから。
それで、『ともかくそのスーツケースの名前の人をアナウンスで呼んでみるから、あなたは乗り継ぎ便に乗ってください。
これを逃したら今日はもうシラキューズ行きはありません』
 って言われてシラキューズまで来たんだけど、やっぱりなかったわ。
それで、改めて手続きやらなにやら、時間がかかっちゃって……。
あなたが心配してるだろうと、ヤキモキしながら出て来たら、あなた、いないじゃない。
で、ベティーに電話して……。もう、ママ心臓が止まるかと思った。でも、ほんとうによかったわね」


   ふだんなら、ミスラゲージ(スーツケースの紛失)はそれだけでガックリするほどいやなことだ。
だのに今日ばかりは、最悪のこともあり得たと考えると、荷物がないくらい、ちっとも気にならなかった。
帰りの車は、いちばん右端の車線を、負傷したカメみたいにノロノロ、たっぷり1時間半もかかってアパートにたどり着いた。
空港を出るとき電話を入れておいたので、ベティーは万事心得顔で、アツアツのピザとミルクティーを用意して待っていた。

「みどり、ものすごい体験を一晩でやっちゃったのね。それに、おばさまも。
そうそう、それからシータスだって」
「あ、そうだ、あんまりパニクッちゃったんで、シータスを紹介するのを忘れていたわ。
ママ、これが私のかわいいシータス」

   そう言われておばちゃんも初めて、俺の存在を思い出したらしい。
まったくもう!
「あらあら、シーちゃん、ごめんなさいね。はじめまして。
あなた、なんだかちょっとウサギさんみたい……。あなたにもお土産を持って来たんだけど、
スーツケースの中だから、届くまで2、3日待ってね」
<エッ、シーちゃんだって? それに、ウサギに似てるって? 
おいおい、俺はシータスって立派な名前がある、立派な猫なんだぜ>

   ベティーもシーちゃんって呼ばれたのを聞き逃さなかった。
「シーちゃん、カワイイ!すごく日本的で。シーちゃんバニーか。私もこれからそう呼ぼう」
<おいおい、とんでもないことになったぜ――>
 おばちゃんは俺の気持も知らないで、上機嫌で頭をなでた。

to be continued

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