<こりゃちょっとやり過ぎた。おばちゃん、本気で怒っちゃった>
   さすがの俺も、しおしおとドアの陰に隠れ、もうドアを引っ掻くのはやめた。
おばちゃんはプリプリしながら風呂場へ行き、洗面を済ませるとキッチンに入って冷蔵庫を開ける。
中には、2日前にみどりが焼いた、チョコレートケーキが入っていた。
『ママ、私が焼きました。よかったら食べて』と、メモが添えてある。

   おばちゃんは相好を崩してそれを取り出すと、たっぷりの一切れを切り取って、コーヒーを沸かす。
窓辺に座って熱いコーヒーと大好物のチョコレートケーキをほお張ったおばちゃんは、すっかり機嫌が直っていた。
<この人、そうとうの甘党らしい。甘いものをほとんど食べないみどりとはだいぶ違うな……>

   おばちゃんは、窓から外を眺め、俺に話しかける。
「ねえ、シーちゃん、いい眺めじゃないの緑が多くて。なんだかとっても平和で、思っていたよりずっといい所だわ」

   俺は自分がほめられたような気分になって窓の縁に陣取り、俺なりに、
<……あそこの屋根はピザ屋、その隣の赤い屋根は用品屋。遠くの丘の上に見える建物は、イサカ大学って、もう一つの大学なんだよ>
と、説明する。だが、おばちゃんに分かるはずはない。
「シーちゃんって、おしゃべりさんなのね」
ときた。俺は、『アリス』に出てくるチェイシャーキャットのように、目をうんと細めるとニヤリと笑った。
おばちゃんは、俺の毛皮を撫でながら、

「あなたの毛皮、本当に柔らかくて、ウサギさんみたい。東京のうちにも猫ちゃんがいるんだけど、その子の毛皮はバリバリに固いの。みんなそれぞれ違うのね。あなたの、この灰色がかった茶色が、昔おばちゃんが飼っていたウサギに似ているの。でもあなたはシマシマがあるから"シマシマ"ウサギ」
<おいおい、もうこれ以上、変な名前は付けないでくれよな>


   「あなた、おばちゃんが編んだセーターと帽子、着たの? みどりに写真送ってって言ったのに、とうとう送ってくれなかった……」
   そうだ、セーターのことを忘れていた。
あれは全然俺の好みじゃなかったけど、一晩徹夜で編んでくれたんだそうだから、お礼を言わなくちゃ。
仕方ないから、俺はおばちゃんの手をペロペロ舐めた。

   一度起きてしまうと、おばちゃんは実に活動的だった。
みどりが掃除機をかけておいた床にもう一度掃除機をかけ、みどりたちが残しておいた食器を次々洗って戸棚にしまい、風呂場を磨き、洗濯物を手で洗った。
<建物の地下にコインランドリーがあるのを知らないんだ……>

   次にベティーの部屋以外、家中を動き回って片付け回る。
俺は金魚のフンみたいにくっついて歩いて、一部始終を監督した。
そうこうするうちに、みどりたちが戻って来た。

「ウワッ、なんだか部屋中きれいになったみたい」
最初にそう言ったのはベティーだった。
みどりは、せっかく自分が掃除したのに、ちょっとおもしろくない。
「ママ、部屋、汚くなかったでしょ?」
「うん、きれいだったわよ。ママが昨夜汚した所を片付けただけ。よくお掃除してあったわ」

   そこで一同、ショッピングモールに食料と日用品の買い出しに出掛けた。
みどりもベティーも、生活費は親からもらっているくせに、どちらかの親が訪ねて来ると、たっぷり備蓄を買わせて浮かすのだ。
アメリカにうといおばちゃんは、ショッピングモールの大きさにびっくり。

   スーパーマーケットで食料品を買ったおばちゃんは、またまた仰天。
なにしろ、みどりが 「大好物のビーフシチューをたくさん作って」って言ったものだから、肉を(それもすね肉じゃないんだぞ)山のように買った。

   それから仲間を呼んでのテンプラパーティーのために、エビやイカ、キスにホタテ。野菜も、粉も、調味料も、コーヒーも。
   これだけじゃない。
トイレットペーパーから石鹸、化粧水の類いまで、なんとショッピングカート2台分、山のように商品を積み上げた。
でも、レジで払った金額が120ドルちょっとだったのだから、おばちゃんはすっかりアメリカに住みたくなったみたいだった。

「ふーん、生活必需品が安いってことはいいわね。贅沢品が高いのは分かるけど、日本じゃ何もかも高いの。それにこの辺りだったら、治安も良さそうだし。自然も豊富で、本当にあなた幸せね、こんな所で学生生活が送れるなんて」
「うん、キャンパスもとってもきれい。明日、案内してあげるわね」



   その午後は、みどりたちが授業に出ている時間、おばちゃんはキッチンにこもって料理をし続けた。
家中にあふれる肉を焼く匂い、それをハーブと一緒に煮込む、口では言い表せないほどの豊かな香り。

   おばちゃんはときどき、気がつかないふりをして、わざと肉の切れ端なんかを俺の目の前に落としてくれる。
俺は台所の入り口に座り込み、口中唾液で一杯にしながら、深々とおいしい匂いを吸い込んだ。
やはり学生だけだとこういう匂いはしない。
それに、今夜はきっと俺も、あの味気ないドライフードでなく、噛めばジュッとジュースが口中に広がる本物の肉が食べられると思うと、うれしくて楽しくて、いても立ってもいられなかった。

   昨日は、みどりとの生活ペースをよそ者に乱されたのに腹を立て、おばちゃんなんて一日も早く東京に帰ってほしいと思っていたのに。
<ああ、おふくろのいる家っていいもんだな……>
   今日は、しみじみそう思ったのだった。



   おばちゃんは、それから1週間ニューヨークに発つ日まで、イサカの初冬を満喫した。
みどりも授業のない日は、近くのフィンガーレイク沿いにあるワイナリーや、コーニングのガラス工場に見学に連れていったり、案内に努めていたが、活動的なおばちゃんは、じきに一人でキャンパスを歩き回りはじめた。

   面白そうな授業を聴講したり、大学自慢の室内100メータープールで泳いだり、知り合いの教授の家におよばれしたりと、なんとも多忙だ。
俺もおばちゃんが、娘や猫にやたらベタベタつきまとうタイプでないのが分かったから、日を追うごとに折り合いがよくなっていった。

   間違って誰かに持って行かれたスーツケースも3日目には無事戻り、俺へのお土産とやらを渡されると、俺はもう、おばちゃんに首ったけになってしまった。
   生まれて初めて食べたもの――魚の燻製を紙のように削ったスナック。
削り節というんだそうだ――をもらって、口に含んだとたん、世の中に、こんなにおいしいものがあったのかと思った。
まずパリパリッとした歯ごたえで、口の中に入った瞬間溶けてしまうあの繊細さ、脆さ。
そのくせ噛めば噛むほど味がでてくるあのコク……。
ちょっと煙り臭いような燻製の風味。
――癖になりそう――まさにそれだった。

「あら、シーちゃん、面白いわ。アメリカさんのくせに、妙に日本的な味が好きなのね」
おばちゃんは大喜び。
なんでも、おばちゃんの家にいる猫は、削り節にはあまり興味がなく、ローストチキンが好きなんだそうだ。
俺のおふくろもローストチキンが大好物だったけど、もしこの削り節を食べていたら、きっと俺みたいに虜になっていただろう。
ああ、一口でいいから食べさせてやりたかった。

   おばちゃんは、ボーイフレンドのダニーにも紹介された。
ダニーの奴、礼儀正しく気持ちのいい青年になりきって、空いている時間があると運転手に、案内係にと名乗りを上げる。
でも、おばちゃんは、ダニーと2人きりでは話題もなく気詰まりだったらしい。
車だってダニーよりずっとましに運転するから、運転手も特に必要ない。

   それでもある晩、ベティーとジム、みどりとダニーの4人を連れて食事に行って戻ってくると、結構奴が気に入ったようだった。
みどりに、
「ダニーって、とてもしっかりしているし、わきまえているし、たいしたものじゃない。やっぱり日本の、あの歳の男の子に比べると大人ね」
と言っているのが耳に入った。
だけど、おばちゃんの目は節穴ではない。
俺が奴から逃げ回るのを見て、なんとなく変だと思っていたらしい。

「ねえ、シーちゃん、あなたは彼をどう思ってるの? おばちゃんはなかなかいい子だと思うんだけど……ハンサムだし、親切だし。でも、あなたはどうして彼を見ると逃げるの?」
俺と2人きりのとき、おばちゃんはそんなことを言った。俺はチャンスとばかり、
<だめだめ、あいつときたひにゃ、疫病神さ。俺はあいつのおかげで何度も死にそうになったんだぜ。……それに、優しそうな顔してるけど、分かるものか>
と、ありったけの悪口を言いつけた。
しかし、悲しいかな、おばちゃんには、例によって、ニヤーニャーとしか聞こえなかったようだ。



   おばちゃんがニューヨークへ発つ日がきた。
見送りにシラキューズの空港へ行ったのは、みどりと俺だけだった。
待合室にいる間中、寂しいのだろうか、みどりは不機嫌に黙りこくったまま。

   いよいよおばちゃんが搭乗口へ向かう時間になると、みどりは俺を入れた袋を肩からぶらさげたまま、機内に通じる天井の低い通路の端に立って、身体を真っ二つに折り曲げて、おばちゃんの姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
俺はバッグの中で押し潰されそうだったが、親との別れがつらいのはよく分かるから、文句も言わずじっと我慢していた。
おばちゃんが乗ってしまってからも、みどりはずっとロビーの辺りをウロウロしていて、離陸するまで空港を離れなかった。

   シラキューズに来ればいつも必ずショッピングモールに寄るみどりなのに、その日は車を発車させると、モールとは逆のイサカ方面に真っすぐ向かう。
相変わらずむっつり黙ったままだ。
俺はだんだん居心地が悪くなってきた。
考えてみれば、アパートを出てから、おばちゃんとみどりはしゃべっていたし、おばちゃんは俺にも「ありがとう」とか「今度は東京で会いましょう、待ってるわ」とか、話しかけたけれど、みどりは俺には一言もしゃべらない。

<何を怒ってるんだろう?、あれがバレたかな? それともこれかな?>
俺はだいぶ前、ダニーの友達レオの家で、彼の大切にしていた金魚を食っちまって怒られたことまで思い出して悩んだ。
とうとう、ぎこちない沈黙に耐えられなくなった俺は、こちらから話しかけた。
それもとっておきの猫撫で声で。

<……ねえ、みどり、おばちゃんが帰っちゃって、寂しいね。おばちゃんいい人だったね>
だけどみどりは何も答えない。
俺はガリガリ、バッグを引っ掻いた。
そこでみどりは、初めて俺の存在に気づいたみたいに、
「あ、シータス、どうしたの?」
ときた。
運転してるからもあるけど、顔は真っすぐ前を向いたままだ。
俺は、バッグのファスナーをこじ開けて、小さな隙間から顔を出した。
みどりは泣いている。
――どうしたんだろう?

   すると、いきなり俺の頭を少々乱暴に撫でながら、みどりが言った。
「シータス、ママ帰っちゃった。ママが来るのはいいけど、帰ると寂しいからいやだ」
俺はびっくりした。
だって、あとひと月もすれば、みどりは東京の家に、クリスマスと正月の休みで帰ることになっているのだから。
それを寂しいだなんて、子供みたいに……。

「オペラなんか観に行かないで、ママもっとここにいればいいのに」
<……だってみどり、あとひと月で日本に帰るんだろ? ママの家に帰るんだろ? それに、ここには俺だって、ベティーだって……ダニーだって(畜生)いるじゃないか!>
俺は必死で心の中で叫んだ。
俺だって、おふくろやおやじ、兄弟をなくしたんだぜ。
だけど、みどりがいるから幸せだって、いつも思ってるのに……。
やっぱり、人間は人間同士じゃないとダメなんだろうかと思うと、ちょっと悲しかった。
to be continued

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