日本への旅は、想像をはるかに超えるものすごさだった。
まず、シラキューズの空港でのチェックインだ。
当時、猫には検疫がなかったから、みどりが肩からぶら下げたカゴの中で、俺はただユサユサ揺られているうちに、すべての手続きは完了したのだがその間、小一時間。

   それから空港で出発を待ち、やっと搭乗してからだって、だいぶ待たされた。
自由に動き回れるのなら、俺だって空港なんてものをよく観察してみたかったし、飛行機にも興味はある。
だってそうだろ、半端なビルなんて追いつかないほどでっかい物体が、空を自由自在に飛び回るってんだから。
   だけどカゴから出してもらえず、ニャーとも言えず、よくてみどりの膝の上、そうでないときは椅子の下に置かれっぱなしじゃ、何一つ見えない。
かといって、やはり初体験で緊張しているから、グーグー眠る気にもなれない。

   しかもだ、「シータスは乗り物に弱いから、気分が悪くならないようゴハンはやめておこうね」なんて言われて、ゆうべからほとんど何も食っちゃいないんだから、喉は渇くし、腹は減るし……もう旅行なんか金輪際ごめんだって固く心に誓った。
   カゴのメッシュを通して、ぼんやりと機体を見ることは見た。
灰色で、犬のオバケみたいに丸っこい鼻のついた顔、デブッとした身体。
イサカの外れにあるカユーガ湖で、ときどき目にするアホウドリ――アッちがった、カモメだったかな?――が飛ぶときみたいに羽を広げて、ビクリとも動かない。
キカイだそうだから、きっと、まだスイッチが入っていないんだろう。


   乗り込みさえすれば、車で出掛けるときみたいに、きれいな景色やさわやかな風を満喫できると思っていた俺が甘かった。
なんと、何も見えず、人間が箱詰めのお菓子みたいにギッシリ並んで座る機内の空気はよどみ、ゴーンといううなり声が鳴りっぱなしなんだ。

   しかも、飛び上がるときの気持ちの悪さ。
まるで、大男の手に押さえ付けられたみたいに、身体がカゴの一方に押し付けられ、逆らおうったって身動きがとれない。

   そのうち耳がワワワーンと鳴って、よく聞こえなくなった。
前足で耳を押さえ、後ろ足の間に頭を挟み込んで必死にこらえたが、もうこのまま、聴力を失うのかとパニックしてしまった。
カゴの中でドタバタ暴れる俺を、みどりはカゴの上からなでながら、
「シータス、じき終わるからね、ちょっとの我慢」
 と、ささやいた。
まあ、耳の異変はすぐに収まり、また聞こえるようにはなったが、前ほどシャープに聞こえない。
これじゃ、ネズミのかすかな鳴き声、鳥の気配なんか、到底聞き分けることはできそうもなかった。

   そのうち、今度はさっきと反対の方向に身体が押さえ付けられた。
やっと楽になって気を許していたもんだから、今度は、鼻をいやってほど床に押し付けられて、前へつんのめった格好のまま固定されてしまった。

   ドドーンとすごい振動を感じたんで、こりゃ、落っこちたに違いないと思った。
それにしちゃ、みどりは座ったまま落ち着いているようだし、どこからも悲鳴のようなものも聞こえない。

   やがて、グヮーッとすごい音がしたと思ったら、飛行機の動きがうんと遅くなって、普通の車みたいにただ走るだけになった。
すると、頭の上のほうからみどりが言った。
「さあ、もう着いたのよ」
<……なーんだ、日本なんてすごく近いんじゃないか。
待つ時間さえ除けば、ピラミッド・モールへ行くくらいのものだ。
それならなぜ、帰るの帰らないのって、ダニーとあんなに大騒ぎで喧嘩するんだろう>
って、俺は思った。


   これでやっとまた身体を伸ばせると思っていたのに、どうも様子がおかしい。
また、待合室みたいなところへ座り込んだみどりは、まるっきり動く気配がなく、手提げから本なんか取り出して読み始めたんだ。
「おい、みどり、どうしたんだよ。早く出て、おうちへ行こうよ」
 と呼んでみると、
「シータス、ニャーニャー言っちゃいけません。これからが本番なんだから、もっといい子にしなくちゃ」
と言う。俺は――はかられた!――って思ったね。
これで終わりじゃなかったんだ。

   それから待つこと2時間近く。
いいかげん頭が変になりそうになったところで、また飛行機に乗り込んだ。
今度は様子が分かっていたから、最初からおしつぶされないよう身構えていた。
ところがなかなか飛ばない。
離陸まで、30分以上待っただろうか。
いいかげん身体中が痛くなってしまった。

   やがて、飛行機がノロノロ動き始めた。
俺は、さあいよいよだ。
つぎにくるのはあのギューンだぞとばかり、足を踏ん張り身体中の力を結集して、離陸に備えた。

   ところがまだ飛ばない。
いくら待っても、滑走路の途中で止まったまま、飛行機は、眠ってしまったようにじっとしているのだ。
これはもう当分飛びっこないなと見切りをつけて、力を抜いたとたん、飛行機はものすごい勢いで滑走路を走り始めた。
もう間に合わない。俺はまたしても巨人の手で床に押し付けられ、思うように息もできない体勢で斜めに吊り上げられていった。
しかも、今度はその状態がさっきよりずっと長く続いた。


   やっと身体がほぼ水平に戻り、通路を女の人が飲み物やおしぼりを配って歩いている。
みどりは女の人――スチュワーデスというんだと後からみどりが教えてくれた――に頼んで、俺用にプラスチックのカップとミネラルウオーターをもらい、座席の下で顔だけ出させて、そっと飲ませてくれた。

   家を出てから何時間たったのか……異常な緊張の連続に、喉がカラカラになっていた俺にとっては、まさに甘露だった。
その後、ちょっと――ほんのちょっとだけ――俺をカゴのまま膝にのせ、ジッパーを開けて半身を出させ、優しくなでてくれた。
このままこうして乗っていられるのかと喜んだが、みどりの隣にいたお婆さんが、すかさず、
「あらあら、猫ちゃんだったの。かわいいけど、あなた、まさか出して抱いているつもりじゃないでしょうね? 飛行機の中には、猫アレルギーの方も大勢いらっしゃるのよ」
と、余計なことを言ってジロリと見たので、みどりは、
「いいえ、初めてなので、怖がっているとかわいそうだと思って、ちょっと調べてみただけです。すぐ戻します」

   と、俺をカゴに押し込んだ。
こういうときは、みどりのように素直なのも考えものだ。
俺の座席――いや、座席はないのだから、乗る権利といった方がいいのかな――をリクエストする段階では、飛行機会社と電話で、かなりしつこく交渉してくれたみどりだったが、いざ乗ってしまうと、結構弱気なのだ。

   水を飲んだときはおいしいと思ったが、間もなくそれも後悔に変わった。
やはり飲むべきではなかったらしい。
俺はすぐに気分が悪くなって、カゴの中でケコケコというしゃくり上げるような声とともに、やっと口を潤した水をすべて吐き出してしまった。

   音を聞いて察したみどりが、そっと手を差し入れて、口元をティッシュでぬぐってくれたからよかったものの、そうでなかったら俺は、日本に着くまでの10時間以上を自分のゲロにまみれていなければならなかったろう。
それに、初めて行くみどりの家、みどりの家族に、ゲロに汚れた惨めな姿をさらすところだった。

   成田空港には、おばちゃんが迎えに来ていた。
やっと地面に足がついたのと、見慣れた顔に安心した俺は、初めて自分がヨレヨレに疲れているのを実感した。
俺の顔をみたおばちゃんは、
「あらおもしろい、猫ちゃんでも目の下にクマができるのね。かわいそうに、疲れた顔して……」
 と、頭をなでてくれた。
成田から東京の目黒区の家まで、さらに2時間近くかかったのには、びっくりを通り超してあきれはててしまった。日本という国は、とてつもなくでっかいに違いないと思った。


   玄関を入ったとたん俺を迎えたのは、これが猫かと思うほど太ったオヤジ猫だった。
白地にグレーと黒の縦縞の入った、今はやりのアメリカンショートヘアだ。
身体はこんなに太っているのに、顔はやけに小さい。
それに、しゃくれた短い鼻がちんまりと、表情がギョッとするほど子猫じみている。
目はものすごくはっきりした黒いアイラインで隈取った上、ごていねいにその外側にはさらに白いアイラインまで通っているから、とてつもなく大きく見える。

   ペットショップのお姉さんは、俺のこともアメリカンショートヘアだと言っていたけど、なんだか全然違う種類の猫みたいだった。
おばちゃんは、イサカで初めて俺を見たとき、
「あら、でも、アメショーって縦縞で、おなかにチョウチョみたいなガラがあるのよ」
と、けげんな顔をして俺をひどく当惑させたものだったが、こいつを見たとたん、
<こりゃまずい、やけに柄のはっきりした奴がいたんだ。この家には……>

   と、思った。俺だって姿は悪い方じゃない。
なんてったって、みどりが一目ぼれして買った猫なんだから。
まだ大人になりきってはいなかったが、人一倍背が高く――胴が長いって言うべきなのかな――身体全体はグレーがかった茶の濃淡。
そこに焦げ茶の縞(横縞だ)がキリリと通っている。
顔はと言えば、そう、マンガのタイガーマスクそっくり、ちょっと長めの鼻が本物の虎みたいな、苦み走ったいい男。
そして目の縁は、薄いベージュのラインが入っている。
ここでいまさら俺の容姿をあれこれ述べたってしかたないが、ともかく、俺だっていい男だってことを確認しておきたかったんだ。
そのアメリカンショートヘアは、ヒョコヒョコ俺の鼻先へ顔をくっつけると、
<こんにちは、君だれ? 僕、ムサシっていうんだよ。早くお入りよ、一緒に遊ぼう>

   と言った。
俺も、アメリカ以外の国の猫に会うのはこれが初めてだったので、最初は言葉が通じるかなって、ちょっと不安だったんだが、やっぱり、賢い猫族はバベルの塔なんてばかなものをこしらえなかったから、言語は万国共通のままだった。
最初からムサシの言うことは、すべてピントのあった写真みたいにはっきり理解できた。


   それでも、ムサシとやらの、ちょっと舌ったらずの甘えた口のききかたは、思わず
――おい、お前、それでも男かよ――
って言いたくなった。
ムサシはかなりおしゃべりなほうらしい
<あのね、君のことはママから聞いてました。みどりお姉ちゃんのおうちの猫なんでしょ?>
 ときた。
<そうよ。俺はこうみえてもニューヨーカーなんだぜ>

   と、ちょっと肩をそびやかして見せる。
本当は、ニューヨークには一度しか行ったことがなかったけれど、イサカだってニューヨーク州なんだからウソにはならない。

<な、な、なんですか、ニューヨークって。ぼ、僕にはよく分かりません>
   ムサシはどうやら慌てると、言葉がつっかえる癖があるらしい。
それにしても、ニューヨークも知らないなんて、まったく無知蒙昧な猫もいたものだ。
to be continued

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